平成船岡ものがたり

平成船岡ものがたり はじめに
 江戸時代、米は人々の食糧になっていましたが、同時に貨幣の役割も持っていました。お侍は現在の給料にあたるものを俸禄米として受け取っていたことでも分かります。
米は人々の豊さやを示す物差しになっていたのです。その米を安定して作る為に先人は苦労を惜しみませんでした。水を確保し、圃場を整備し、技術を磨き、安定した収穫が得られるように努力を積み重ねてきました。
 船岡でも米作りの水源を、六つの沼から水量の豊富な白石川に求める「船岡用水」が計画され、明治20年代に原型が出来上がりました。その過程には多くの先人の、不断の努力がありました。小さな村の農民から裕福な地主、村の役人まで、多くの努力がつながって船岡用水は出来ました。そして今も守り続けられています。
 今回はこの用水路をたどることで、船岡の姿を見てみたいと思います。現在の用水路は蓋が架けられ、水の流れを身近に感じる事は出来なくなっています。それでもいくつかの所では水の流れを見ることや音を聞くことが出来ます。
 その音を聞くことで、物言わぬ先人の苦労を偲ぶことが出来ると思うのです。
 では先人を偲ぶ旅に出発しましょう。

柴田町文化遺産活用実行委員会

船岡

船岡の由来

伊達政宗の時代に、「四保」、つまり「シノオ」から舟岡に改められたとあります。
雨にあい、びしょ濡れになった状態を「しとどに濡れる」と表現することがありますが、このシトドニと同義の副詞にシノノニという言葉があります。このシノノニの語源は湿地を表す地名用語として用いられていて、四保はこのシノを語根とした地名と考えられます。
 白石川、荒川(村田町)と四保山が造った自然堤防の後背地に形成された沼沢地をシノオとよんだ、と解されます。今はその面影もない大沼をはじめとする六沼(大沼、赤沼、内沼、八入沼、鍋倉沼、鷺沼)はそうした後背地の名残りであったと思われます。
 では、なぜ四保が舟岡と改められたのでしょうか。伊達忠宗の命により、四保が「響悪敷・ひびきあしき」ゆえであって、シノオは「死のう」に通じるというわです。
 舟岡の四保氏は「本姓」に復して柴田氏となりました。これに従えば、本姓の根拠となった土地も柴田と改められても不思議ではないはずであるが、土地の方は舟岡と改められました。一方、別の四保氏は「響」が悪いからとの理由で柴田氏となりましたが、「シバタ」と「シノオ」がどのように結びつくのか、解決されずに残っています。
 新しい村名「舟岡」は何に由来するのでしょうか。最も妥当な説として、四保山の山容があたかも舟のようであるのでついた村名と考えられます。四保山が六沼に囲まれた丘陵であり、その舟着場であったことにちなんだものという説もあります。
 藩政時代は「舟岡」、明治二十二年の町村制施行に伴い四ケ村合併によって誕生した「船岡村」と書き表わしました。

豊川光雄・記

俵石

 柴田町史 通史Ⅰ 柴田町の歴史 に掲載されている、江戸時代の旅行記「松島紀行」・文政八年(1825)に次の記述がある。「舟迫は宿の右のかた河をへだてて俵石という石あり。げに俵をつみしように見ゆ。」
 江戸から松島に向かう旅日記で、舟迫から白石川を隔てて対岸に石が俵を積んだように見えた模様である。
 この「俵石」は、船岡・館山から出土されます。旧国道4号の工事の際、出土された俵石がしばたの郷土館の中庭に屋外展示されています。
 俵石は、玄武岩という火山岩で、十数万年前、付近の大噴火により流出した溶岩が冷えて、できたものです。この玄武岩には、六角形の柱状節理(柱状の規則正しい岩石の割れ目)があります。また、平らに割れる板状節理もあり、これら二つの節理によって俵のような形に石が割れるところから「俵石」と呼ぶようになりました。節理は溶岩が冷却するとき体積が縮小するが、そのときに出来たものである。冷却するときに収縮の中心(核)ができ、そこを中心にお互いに垂直の方向へ引き合って出来たものである。現在見られる俵石についても、この考え方で収縮の中心を見つけることが出来ます。節理の形は四角形、五角形、六角形を示すものが多い。代表例は、白石市小原にある天然記念物「材木岩」です。
 柴田町の古い墓石に「俵石」を用いたものも見られますが、この俵石は節理によって出来た岩石をほぼそのまま利用したものです。
 この俵石は、「しばた千桜橋」の船岡城址公園側の橋脚台の東側(樅ノ木展望デッキの下方)から採掘しましたが、良質のものはほとんど残っていません。
 大光寺にある柴田家一族の菩提所の墓石に俵石が使われています。

豊川光雄・記

船岡駅開業

 昭和四年(1929)船岡駅が開業しました。当時の仙南日日新聞によれば、駅の新設を願い出てから、10年以上かかったと記事にあります。隣の槻木駅が明治二十四年(1891)でしたから、38年も遅れたことになります。
船岡駅の新設運動については大きく三期に分けることができます。

第一次請願運動

 大正二年(1913)八月、大雨によって白石川が氾濫しました。川沿いの鉄道線路も水害にあい、鉄道省は路線変更を考えました。それは槻木駅から船岡中名生上名生の耕地を横切り大河原へと行くルートでした。この変更計画を聞いた船岡村民から、従来の線路の位置に船岡駅を設置しようとする運動が起こりました。
翌大正三年 飯淵七三郎他491人の有志が新駅新設請願書を提出しました。多くの村民も請願に加わりましたが、機は熟さず運動は中止されました。

第二次請願運動

 大正十年(1921)、水戸熊蔵村長が「停車場新設請願の件」を村会に提出、可決されました。そして請願委員に四人の議員が選ばれ、、仙台鉄道局、鉄道省への陳情運動が続けられました。けれどもここで一緒に請願運動をしていた角田軌道が請願を断念してしまい、大正十二年(1923)結局運動を中止せざるをえない状況になってしまいました。

第三次請願運動

船岡駅第二次請願運動は表向きは中止となったものの、村当局を中心に活動はつづいていたようです。第三次請願運動を述べる前に、当時の政界について説明します。
大正十四年(1925)普通選挙法が成立して、昭和三年(1928)第一回普通選挙が実施されました。昭和二年(1927)に田中義一政友会内閣が設立され、同年六月に立憲民政党が結成され、総裁には浜口雄幸がなりました。第一回普通選挙の結果は政友会218
、民政党216
、無産8という結果で、それ以降昭和七年の5・15事件まで二大政党時代が続きました。船岡駅設置認可の指令がでたのは、田中政友会内閣の時代でした。
 請願運動では、政友会代議士菅原伝に船岡役場書記気仙宗助が頻繁に連絡をとっていたようでした。
このような中央政界との関係が第三次請願運動につながり、駅設置への大きな原動力となったことは言うまでもないことです。
 大正十五年(1926)に再び運動は村会議員の村会召集請求で始まりました。村会で船岡駅新設請願が可決され、昭和二年(1927)2月仙台鉄道局が鉄道省審議会に新駅設置願いを提出したことを発表しました。そして同年十月鉄道省より設置認可の指令がやっとおりたのです。
このように長い年月をかけての新設運動にはそれ相当の費用がかかりました。第三次請願運動の時には、船岡区が「停車場設置に要する費用一万円を寄付しました。このことから設置に付帯する工事費の殆どを区会が負担したようです。経済的基盤がなにより開業へのスピードを高めました。
 もちろん最初の運動から、当時の篤志家が貯蓄や山林売却費等を寄付していました。しかし諸般の事情でその資金がうまく運用できなかったのです。当時の財政基盤があったからこそ、すべてが第三次運動へつながったとみて良いでしょう。
 では当時の船岡村の財政はどうだったのでしょうか?。実のところ村からの財政支出はあまりなかったことが資料でよみとれます。したがって区会からの寄付が殆どの財政基盤だったようです。

八間道路

昭和二年(1927)新駅設置と同時に、八間幅の道路がつくられました。第3次請願運動のときは関東大震災の復興計画が進んでいて、後藤新平は東京を一等道路(幅員60m)で区画する計画が立てられていた時期でした。駅の請願運動をしていた人々は、帝都復興計画を見て、広い通りの必要性を理解し、駅への停車場線の幅を八間(14.5m)に広げました。
日本はやがて第二次世界大戦にはいっていきます。船岡駅開業当時は、やや分不相応にみえた幅広の道は、大戦に伴う新しい施設誘致に大きな影響を及ぼすことになりました。火薬廠の建設により駅前通りは人の往来が一層激しくなっていくのです。

参考資料 柴田町史 通史編 Ⅱ・ 仙南日日新聞
陶久尚子・記

昭和14年の船岡駅(目で見る仙南の100年より)海軍火薬廠開庁記念に出された写真。海軍火薬廠は日露戦争以来、火薬の質、量の向上を急務とした海軍が神奈川県の平塚に続いて昭和年14年に開設。
船岡町は火薬爆薬製造の一大拠点になりました。
終戦直前の火薬廠の工員1万人のうち、動員学徒や女子挺身隊が約4,000人を占めていたといわれています。
船岡駅

六沼干拓事業

 安永風土記の大谷村の項に刈田郡内親から白石川の水路が書かれていますが、少なく、六つの沼からも水を引いていました。六沼とは鷺沼、八入沼、鍋倉沼、大沼、赤沼、内沼ですが、浅く干ばつになれば雨を待つしかありませんでした。そこで明治に入ってから、白石川からの水路を整備して干ばつの憂いをなくし、同時に六沼を干拓して水田にするという一石二鳥・三鳥にもなるという計画が立てられました。
 上大谷の八島健蔵が上大谷掛根山付近(欠の山)付近で白石川を堰上げ、隧道を掘り始めました。しかし資金不足で工事は中断しました。その後を尾形安平や飯淵七三郎らが引き継ぎ、山形の大築市蔵に請け負わせて、3年後に完成しました。(船岡用水)
六沼も干拓され、大沼、赤沼の一部を残して84町歩の水田に変わりました。この新田は30年間荒野地として免税の手続きが取られました。

出典 大河原町史 柴田町史 土地改良区資料より
秋本好則・文

船迫の植物

姥彼岸桜(ウバヒガンザクラ) バラ科
別名 エドヒガンザクラ・アズマヒガンザクラ

分布

 柴田大橋を船迫に向かって渡り、土手を右に曲がると一本目の木がウバヒガンザクラです。船岡・船迫地区では一番太いと思われます。
そのほか 船岡城址公園でも旧テニスコートの入り口や柴田家霊廟跡、山崎山公園の北側階段付近でも見られます。役場の敷地内(普門寺跡地)に残る枯れ木の株もウバヒガンザクラです。

特徴

 とても長生きする木で、全国には樹齢500年を超えるものもあり、丸森の小筆甫にも樹齢400年を超える木があります。シダレザクラはこのサクラの変種で、やはり長生きします。
ソメイヨシノと比べると花期が少し早く、花色は赤みがかかっています。
花の子房はふくらみがあり、細かい毛が密生しています。樹皮は若木ではソメイヨシノとあまり変わりませんが、老木になると縦に割れ、ゴツゴツして一見サクラには見えません。

踊子草(オドリコソウ)  シソ科

 船岡城址公園でたくさん見られます。オドリコソウの花の時期はサクラの花の後です。オドリコソウが花をつける頃には背丈が伸び、高くなるため、他の雑草と一緒に刈り取られてしまい、見る機会が少ないようです。
花の色は個体差がありますは、薄い桃色です。オドリコソウの名は花の形が笠をかぶって踊る人に似ているところからきています。

姫岐阜蝶(ヒメギフチョウ)
アゲハチョウ科 準絶滅危惧種

 大きさはモンシロチョウくらいです。
ゆらゆらと風が強くない日に、林の中を飛び回ります。

分布

 城址公園でも以前は生息していたと言われています。伐採が進む前はカタクリの分布を多く、食草(ウマノスズクサ科)もたくさん見られました。「今でもいるのでは」と言う人もいますが、カタクリの分布も狭くなっているので、生息の可能性は低いと思われます。

*カタクリの花の内側はこのように紫の模様があります。機会があったら覗いて見てください。

大森山の自然

植物

敦盛草(アツモリソウ)   ラン科 絶滅危惧種1類
熊谷草(クマガイソイウ)   ラン科 絶滅危惧種1類 

地質

方解石

大森山から北東へ散策路を歩いていくと山崎山公園があります。その公園の西側斜面には 以前 赤色の岩の崖があり、岩の中には方解石の結晶が含まれていました。
今は崖も削られて住宅地になっていますが、土が残っている地面を見ながら散策すると、運が良ければ方解石を含む石をみつけられるかも・・・。
赤い(小豆色)の石を見つけるのが”コツ”です。