飯淵七三郎翁

飯淵七三郎翁 (1846~1926)

飯淵七三郎翁 弘化3年(1846)船岡に生まれ、明治7年(1874)に家督を相続しました。宮城県を代表する資産家で、明治37年(1904)の多額納税者では、県南でただ一人名前が載りました。(県毎に15名)
彼の実績は多数ありますが、その根底には見返りを求めない社会活動がありました。
翁の活動は主に三つの分野に分かれています。農業、社旗経済活動、そして教育があげられます。
農業では主に米作りになるのですが、この分野での大きな功績は、船岡用水事業への貢献、また自費で農会(舟岡村農会)を自宅につくり、福岡県から技師を招いて技術の向上指導を行いっています。農家に資金の融通や肥料購入の指導を行ったり、米の品種改良にも関心があったことが伝わっています。

船岡用水については、明治22年12月用水路の事務処理を行う舟岡村外一町組合が設立され、組合会議員として参加しています。(舟岡村から5人、大河原町から5人)
用水にかかる稲井石の橋も飯淵翁が作りました。明治32年(1899)舟岡村村長に就任し、翌33年に用水改修工事に着手しています。

実業面では、明治32年(1899)商業貯金銀行(後の七十七銀行)の設立に参画、同44年まで取締役に就任しています。また宮城県農業銀行(日本勧業銀行へ発展)や仙台興業銀行(後に七十七銀行に合併)の設立にも参加しました。
教育については、明治26年(1893)仙台の私立日進学舎を譲り受け、同学舎の移転、改革に努めました。ここはやがて県立第二中学校(県立仙台二高)の母体になりました。

こうした活動には、何より資金が必要であり、彼の金融の知識と私財投入が大きな原動力になったと思われます。 フランスにノブレス・オブリージュ(noble obligation)という言葉があります。強い立場の人は、他に先だって人の嫌がることをしなければならないという言葉ですが、明治40年に館山にソメイヨシノを植えたこと等の功績はまさにこの精神に基づいているように思われます。

一方では政界に出ており、明治13年(1880)に県議会議員、明治27年(1894)には貴族院議員に選ばれています。

謡曲や書にも堪能で、農閑期に謡曲の指導を行っていました。謡曲の号は如城。館山の中腹に翁の銅像がありましたが、昭和18年(1943)金属回収で持ち去られました。
現在は飯淵雅高氏建立の石板が往時の様子を描いてます。大正12年(1923)1月14日の仙南日日新聞では「舟岡の慈父}と紹介されています。また飯淵七三郎翁頌徳碑には謡曲の一節と共に翁の実績が刻まれています。

大正15年(1926)没後、山崎山の飯淵家墓地に埋葬されましたが、火薬廠建設時に接収され、角田市の妙立寺へ改葬されました。
柴田町史、七十七銀行100年史、全国多額納税者名簿(明治37年)、宮城県姓氏家系大辞典仙南日日新聞より

秋本好則・文

飯淵翁頌徳碑

舘山の飯淵七三郎翁頌徳碑長生の家にこそ 老せぬ門はあるなしを
是も年ふる山ずみ乃 千代のためしを
松陰乃  岩井の水は薬にて  老をのべたる心こそ
猶行末もひさしけれ  なほ行くすえも久けれ

帝の御殿の長生殿には その名もめでたい不老門があるという。
私も山に住む老人だが、長寿のシンボルの松、その松の陰の岩間から湧き出る清水は不老長寿の薬の水、いつまでも長生きできるに違いあるまい

翁の名は七三郎といい、如城と号した。父は藤七といい、弘化3年船岡に生まれた。27歳で家を継ぎ、懸命に努力して家運の興隆をはかり産を築いた。一方社会への貢献大をわすれず、宮城商業銀行、宮城農工銀行の設立に参画して経済界に活躍。育英に心をくだき、独力で日進学舎を創立、県立二高の礎を作った。
特に農業指導に力をかたむけ、船岡村農会を結成して資金融通・肥料購入・技術指導・品質改良に力を尽くし、進んで道路改良・橋梁架設などにみずから私財を投じた。地方開発の功績は真に郷人を感激させるところであった。
翁はまた政界でも活躍、村長・県会議員・貴族院議員を歴任、大いに国家社会に力をつくし、明治42年には藍綬褒章をさずけられた。
翁のひととなり、温厚典雅、趣味に生き、書を能くした。浄瑠璃に、また喜田流謡曲に一家を成し、多くの子弟をやしなった。大正15年八十余歳にて逝去。翁のような人物は社会公益の先人として、その徳は四周におよぶ人というべきではなかろうか。今翁が植えた桜樹の下、碑を建てその遺徳をたたえて後世に伝えようとする理由である。
昭和32年4月18日       前宮城県知事   宮城音五郎 篆額
柴田町長    柴田倫之助 選文

碑文冒頭は世阿弥作「養老」の一節で碑文にもあるように喜田流謡曲に一家を成した翁七十七歳の時の自筆テキストを刻んだものである。

平成26年 春惜月  日下 龍生 訳注
渡辺 葉子・記

飯淵七三郎翁銅像

飯淵七三郎翁銅像 七三郎翁が七十七歳の喜寿の祝いに、舟岡村民が壽像を館山に作りました。翁はそのお礼に館山に桜の植樹をしました。昭和十八年の金属回収で像だけでなく、説明や銘板も持ち去られ、現在は写真のように台座だけが残されています。

 戦後七十年を経て館山は桜の季節には、翁の植えた桜を愛でに、二十数万人の観光客が訪れていますが、人知れず放置されています。

 仙台の伊達政宗像や札幌のクラーク博士像も同じ様に金属回収でなくなりましたが、戦後まもなく、再建され、地域のシンボルになっています。
現在は飯淵雅高氏建立の石板が傍らにあり、往時の様子を描いてます。

秋本好則・文

いろは蔵


 飯淵家の米貯蔵蔵。長さが四十八間(87.3メートル)、幅五間(9.1メートル)、総二階で延床面積480坪でした。長さが四十八間あったことから「いろは蔵」と名づけられました。詳細は分かりませんが残された写真を見ると四間おきくらいに入り口が見えますので十二室くらい連なっていたと思われます。
戦後、農地解放で使われなくなり、昭和二十八年に解体され、丸森の業者に引き取られました。

 

平井秀雄氏より聞きとり
秋本好則・文