コース詳細

船岡用水

 藩政意時代、舩岡村や上、中、下名生村、大谷村(現大河原町)などは六沼(大沼、赤沼、内沼、八入沼、鍋倉沼、鷺沼)から水を田に引いていました。六沼は底が浅く、一度旱魃に遭えば水がなくなり、雨を待つしか仕方がありませんでした。そこで水が豊富な白石川から水を引く計画が考えられました。
 最初に動いたのは大谷村でした。73戸中53戸の農家が資金を出し合い、大谷村掛根山付近(欠の山)で明治15年に工事が始まりました。しかし工事費が計画より大幅に増加し、大谷村の八島健蔵は私財を投じて工事を続けましたはが、遂に中止になってしまいました。
 八島健蔵の大谷用水を、大河原町の当時の大河原町長・太田荘十郎、舟岡村長・阿部勇八、尾形安平氏、及川與八、川村大三郎らが引き継ぎました。彼らは舟岡村他一町水利組合を組織し、地元反対者の説得、交渉を行いました。委員は大河原町では尾形安平他4名、舟岡村は飯淵七三郎他4名の10名でした。
取水口を刈田郡白川村内親に代え、船岡用水として、工事費15,000円で明治22年12月に工事が再開されました。工事費は1株25円の株金で賄い、用水完成後に不要になる六沼の干拓地を株主に配分するという計画でした。費用面では尾形安平が奔走し、工事を山形市旅籠町の大築市蔵に請負わせました。費用は当初の倍30,000円に膨らみましたが、大河原町長・太田荘十郎らが宮城県に交渉し、6割の補助を得て、明治25年4月に竣工しました。この用水路は11.8kmの長さで、大谷、舟岡、三名生の三ケ村・計257haの用水が確保されることになりました。
 その後明治32年からは用水路改修などが行われましたが、沿線の市街化に伴い、水質汚濁などの水質悪化が起こりました。水利組合(現土地区画整理組合)では用水と排水の分離が検討され、昭和48年に工事がはじまり、15年の工事を経て新用水路が完成しました。

新用水路は大河原町大谷見城前で分かれ、館山隧道から恵林寺、大光寺の前を通り船岡五間堀や三名生堀を経て阿武隈川や白石川に注いでいます。
船岡の町中を流れる用水を見てみると、館山北の水路から藩政時代の主要な道(現役場北側の道)に入り、普門寺跡(現柴田町役場)付近で東と南に別れます。2本の水路は当時の船岡の町中を潤すように流れ、町外れであった東町ノ口で合流します。

建設当時は土側溝であったと思われますが、用水の改修時に石積みに補強されたと推測します。
 現在はコンクリート製の蓋がかけられ、石積みは撤去され、コンクリートの護岸になっています。唯一石積みが残る本町(役場西側)の水路には稲井石の橋が架けられ、所々には敷地内からの排水口もあり、往時を偲ぶことができます。稲井石の橋は飯淵翁が造ったと伝えられています。
 維新当時の船岡地図を見ると、館山北側の水路が内沼の水路とつながって描かれていますので、船岡用水建設には既存の水路が利用されたと思われます。なお、地図では水路が道の中央を流れていますが、藩政時代の名残りで、明治になってから道路脇に移動しています。
*白石では、明治天皇の東北巡幸にあわせて改修されました。

大河原町史、柴田町史、柴田土地改良区資料より 秋本好則・記

船岡渡し

 明治十年頃の皇国地誌(郡村誌)「船岡村誌」と「沼辺村誌」によると、「船岡渡し」は「横渡し」とも呼ばれ、白石川に船岡村と沼辺村(現村田町沼辺)を結ぶ渡し船がありました。渡しの長さ50間(約90メートル)、深さ三尺(約0.9メートル)で二艘(私船)で運行していました。
 船岡渡しは、角田道に属していて、奥州街道沼辺(現村田町沼辺)から白石川を渡り、船岡を通り神次郎村経由で角田町に向かう道です。
旧角田道は、しばた千桜橋の橋脚の下流100メートル程のところに、県道50号線から東北本線を渡り白石川右岸の堤防を越え河川敷に向かう道が残されています。その先に船着場がありました。
柴田の館主も「かつこ舟」二艘を使い、白石川を渡って奥州街道に向かいました。(安永風土記)
。船底材に棚を附けたもの、またはそれに類似の形
*かつこ舟(合子舟・数子舟):刳舟(くりぶね)の一種
船底材に棚を附けたもの、またはそれに類似の形のもので、鮑、海藻などの磯物採りに用いられた小舟。
「安永風土記」では川漁舟や作業通舟、洪水の際の用心舟、通用舟として使われたことがわかります。「かりこぶね」(刈子舟、苅子舟)とも。また、大刈子舟といい、商舟として御役代今代500文を上納するものもありました。
明治六年発行「宮城県治一覧」によると、渡し賃は人六厘、馬一銭二厘でした。

船岡村誌、沼辺村誌、柴田町史史料第六集、新版仙台藩歴史用語辞典
豊川光雄・記

柴田城跡(芝田館・四保館・舟岡要害・船岡城)

一.立地
船岡の町並みの西側にそびえる館山(四保山)にある。この山は、南から北西方向へ突き出た半ば独立したかたちとなっていて、下部は凝灰岩、上部は玄武岩質安山岩である。北側には白石川が流れ、それに旧奥州街道が沿う。館山は、これらをはさんで韮神山と相対する形となっており、交通の要所を抑える政治上・軍事上の拠点がこの城館である。山頂は、本丸、二の丸跡で、眼下に柴田、刈田、伊具の山野が展開し、霊峰蔵王につづいて遠く吾妻、安達太良の連峰が視界に入る。悠々たる阿武隈川は城館の北東を流れて太平洋に注ぎ、遥かに名取、仙台平野が望まれる景勝の地である。

二.規模・構造
柴田城は、丘陵とその周辺地域を防御施設とした壮大な規模を有し、中世から近世にかけて長い年月にわたって営まれた。そして、中心となった郭は、時代によって移り変わったことが知られているが、その変遷を明瞭に跡づけることは困難である。

(一)本丸
現在、観音像が建つ山頂部、矩形の平坦地がそれである。「仙台領古城書立之覚」は、東西46間(約83メートル)、南北36間(約65メートル)としている。標高136メートル。本丸の周囲には、土塁数条の段などが見られる。北側には一条の堀切をはさんで見張台と思われる地点がある。

(二)二の丸
本丸から南東方向へ、一段下がった矩形の平坦地で、「仙台領古城書立之覚」は、東西26間(約47メートル)、南北44間(約79メートル)としている。西縁に土塁があり、その西方は急峻な崖をなしている。
東側には、十数条の段、土塁、堀切などが見られる。特に南東方向に顕著に見られる。なお、二の丸には「絹引き井戸」と伝えられる井戸が現存する。

(三)三の丸
本丸から北東方向へ、約400メートル離れ、現在、船岡城址公園として知られる丘陵裾部、矩形の平坦地がそれである。「仙台領古城書立之覚」は、方70間としているが、実測によれば、東西155メートル、南北95メートルの矩形であった。標高42メートル。北西縁に土塁が残されている。東縁部は、直線的な形状をなし、その中央に詰の門があり、麓の四の丸とはみだれ坂によって連絡されていた。また、南西部に本丸・二の丸とを結ぶ坂口門、内沼方面へ通ずる裏門があったとされる。なお、三の丸にも井戸が現存する。

(四)四の丸
三の丸から東側に下った横位置のL字形をした平坦地である。南側は内沼、東・北側は堀によって画されていた。みだれ坂に対応した位置には大手門が設けられており、堀の東側一帯には家中屋敷が配置されていた。大手門の前には、橋が架けられ、家中屋敷と結ばれていたとされている。

豊川光雄・記

柴田町由緒ある地名保存標示柱(船岡地区)

本町

柴田町役場(船岡中央二丁目3番地内)平成元年度設置
16世紀末、横町、新町とともに武士以外の町民の居住区と定められた。18世紀半ばの家数は52軒。慶応三年当時の人頭(戸主)数44人、人口269人であった。幕末から昭和初期にかけて、商家が立ち並び船岡の中心地として栄えた。

内小路

白鳥神社(船岡西一丁目6番地内)平成元年度設置
藩政時代、武士の居住区、すなわち侍丁の一つである。館山の麓であり、柴田家の重臣たちの屋敷があった。一画には幕末の武道場「明了館」があり、跡地には白鳥神社が鎮座している。

広小路

仙台銀行(船岡中央二丁目13番地内)平成二年度設置
藩政時代、武士の居住区、すなわち侍丁の一つである。南北に走る道路は昭和四年の船岡駅開業時に拡張された。当時は、「道幅が広すぎる」と言う人もいたが、町の発展につれ、広すぎるものでないことが認められた。

横町

大槻氏 敷地(船岡西一丁目2番地内)平成二年度設置
16世紀末、本町、新町とともに武士以外の町民の居住区と定められた。18世紀半ばの家数は49軒。慶応三年当時の人頭(戸主)数41人、人口257人であった。昭和の初めまで、飯渕家の屋敷と、「いろは倉」と呼ばれた倉庫があった。

新町

大光寺入口町道(船岡中央三丁目3番地内)平成二年度設置
「16世紀末、本町、横町とともに武士以外の町民の居住区と定められ、本町の南端から東に向かって形成された。18世紀半ばの家数は36軒。慶応三年当時の人頭(戸主)数39人、人口208人であった。」

原町

トヨタレンタリース柴田(船岡中央二丁目11番地内) 平成三年度設置
「16世紀末、袋町、新小路、新田丁とともに船岡の領主の足軽の居住区と定められた。柴田氏が始めた頃は、足軽屋敷のほか、家中屋敷もあった。昭和十三年、船迫から国道がここに移った。昭和五十二年、柴田バイパスの開通に伴い、県道となった。」

神山前

船岡体育館(船岡南二丁目2番地内)平成五年度設置
「船岡村鎮守、新山権現社(深山権現社ともいい、明治の初め白鳥神社に合祀)があった新山北側一帯を神山前と称した。近世初頭には開田されており、ほとんどが上田であった。」

太子堂

船岡中央公園(船岡東二丁目5番地内)平成五年度設置
「聖徳太子をまつった太子堂があったことからこの地名が生まれた。この地一帯は昭和十五年ころまでは肥沃な畑地であったが、海軍火薬廠の設置に伴い工員宿舎が建てられた。」

岩松山恵林寺(えりんじ)

曹洞宗寺院。
原田氏の菩提寺東陽寺の十一世用山全応が寛永九年(1632)に東陽寺(現在の大光寺の場所)の末寺として開山。五輪小路の普門寺にあった虚空蔵菩薩が祀られています。
岩松山恵林寺

大黒塚

墓地の南西部の小丘陵に「大黒塚」、あるいは「おぐろ塚」とよばれる小さな石の祠があります。大黒とは柴田家で飼育されていた名馬の名前です。体躯は標準的な馬よりはるかに大きく、かつて江戸まで休息することなく一昼夜で駆け抜けたという伝説の馬です。柴田蔵人の時のことと伝えられています。
 故柴田倫之助氏は、「この柴田蔵人は十代目の蔵人成義で、宝暦六年(1756)に奉行職として、急遽江戸に上ることになり、そのときに使われた馬であった。」と説明しています。

伝・原田甲斐供養碑

 伊達騒動で原田家はお取り潰しとなり、菩提寺・東陽寺も県北部(登米市東和町)へと移されました。
事件後、船岡の民衆は甲斐を不憫に思い、事件のほとぼりがさめた十数年後、甲斐の名前ではなく、 六字名号「南無阿弥陀仏」が刻まれた碑を立てたといわれています。碑の両側には舩岡村の住人と思われる平乃屋、駒村屋、渡辺屋などの名前が見られます。年号は残念ながら確認できません。

出典 柴田郡誌 柴田町史 柴田町の文化遺産・船岡編
日下龍生氏談
恵林寺共 渡辺葉子・記

伝・原田甲斐供養碑

及川産婆の碑

 山門の前に稲井石の大きな碑が建っています。「及川産婆紀功碑」と題されたこの碑は、明治時代、船岡にあって近隣の村々もふくめて多くの助産にあたった及川ます媼(おう)を顕彰したものです。

出典 柴田郡誌 柴田町史 柴田町の文化遺産・船岡編
日下龍生氏談
渡辺葉子・記

及川産婆紀功碑

人の善事は生を助るより美なるはなく、中に就も人生を助くるを最となす、況んや人の初生を益く人をして終世の幸福を享けしむ、蓋し焉より大なるはなからむ、及川ます媼は維新の前、領主柴田家の家臣及川與惣治の室にして、壮年夫を亡ひ寡居貞節を厳守せり、偶ま感する所あり、 業に産婆に就く、爾来殆んと四十餘年、其の産児を助くる者数千に及ふ、今や齢耳順を越ゆる五祀、而して益す健康なり、茲に助産を受くる者、共に相謀り碑を建て以て一は媼の年寿を賀し、 一は其の功績を謝し永く後世に紀念すと云ふ

明治三十三年十一月十七日
選文者 宮城県教導取締 菊池大仙禅師
山内淡 齊書
石工 大野藤七・大槻長七

読み下し文

及川産婆紀功碑(おいかわさんばきこうひ)  
大光寺門前に建つ「及川産婆紀功碑」、女性の碑は 珍しい。
及川ます(天保七年(1836)~明治三十七年(1904)68歳)

人の善事は生を助るより美なるはなく、中に就(つく)も人生を助くるを最となす、況(いわ)んや人の初生を益く人をして終世の幸福を享(う)けしむ、蓋(けだ)し焉(これ)より大なるはなからむ、及川ます媼(おう)は維新の前、領主柴田家の家臣及川與惣治(よそじ)の室にして、壮年夫を亡ひ寡居(かきょ)貞節を厳守せり、偶(たまた)ま感する所あり、業(なりわい)に産婆に就く、爾来(じらい)殆んと四十餘年、其の産児を助くる者数千に及ふ、今や齢(よわい)耳順(じじゅん)を越ゆる五祀(ごし),而(しこう)して益(ますま)す健康なり、茲(ここ)に助産を受くる者、共に相謀(はか)り碑を建て以て一は媼の年寿を賀し、一は其の功績を謝し永(なが)く後世に紀念すと云ふ

明治三十三年十一月十七日 
選文者 宮城県教導取締 菊池大仙禅師(大河原・東の寺・繁昌院住職)
山内淡齊書
石工 大野藤七・大槻長七(旧柴田家中)
注)媼:老女、耳順:60歳の異称
船岡新田に吉野産婆の碑がある。(明治中頃)(小さ い碑)
豊川光雄・写

妙高山大光寺

天文十六年(1588)伊具郡金山本郷の金龍山瑞雲寺の雲集全利和尚の再興とされています。
柴田家の菩提寺で寺格は柴田家中の家老格とされ、知行高は1貫500文、末寺はありません。
妙高山大光寺

柴田家の墓地

40の墓石があり、柴田家代々の名を見ることができます。その中で、柴田町史〈通史編1・659
P〉の南の端にあるお墓は、町内で唯一と思われる形式の墓石で、板碑型墓塔と呼ばれるものです。刻まれている五十嵐蔵人とは柴田外記の実兄です。

出典 柴田郡誌  柴田町史 柴田町の文化遺産・船岡編 日下龍生氏談
渡辺葉子・記

五百羅漢

 歴代住職のなかで、雲州全利から数えて十四世の環中道一(かんちゅうどういつ)和尚は大光寺に数々の足跡を残しています。
本堂背後の崖の横穴に、小型ですが数多くの石仏が祀られています。明和八年(1771)流行病の鎮静を祈願して環中道一和尚が造ったものです。
五百羅漢

大光寺のイチョウ

 大光寺本堂脇、墓地への石段のところにイチョウの木が、秋には大量の銀杏を実らせています。文政六年(1823)寺の建物が火災で焼失、イチョウの木も炎に包まれましたが、春が来てイチョウは再び芽吹いて、船岡の人々を歓喜させたと伝えられています。
町の天然記念物に指定されています。

出典 柴田郡誌 柴田町史 柴田町の文化遺産・船岡編 日下龍生氏談
渡辺葉子・記

月夜塚

 大光寺の山門をくぐって左手の植え込みのなかに一基の句碑がたっています。
館山の北側から産出した俵石(柱状節理)には

名月や池をめぐりて終夜(よもすがら)   芭蕉翁

とあります。環中道一和尚は俳号を碓花坊也寥(たいかぼうやりょう)といい、当時広く名の知られた俳人でした。月夜塚の建立は俳聖芭蕉と同じ伊賀国の出身である也寥にとって同郷の先人に対する敬意の現れであったと思われます。建立は明和五年(1768)八月、この句が選ばれたのは、当時境内に池があったことによると思われます。
也寥の建碑はもう一基、『奥の細道』のクライマックスの一つ平泉にもあります。源義経終焉の地・高館に夏草や兵(つわもの)どもが夢の跡の碑があります。明和七年(1770)初夏のことです。しかし、この碑はなぜか毛越寺境内に移されています。現在は高館に、上段にこの句が刻まれ、下段に大光寺の句碑を写した由来が刻まれた碑が新たに建っています。

日下龍生氏談より渡辺葉子・記

久圓寺跡(くおんじあと)現・山崎山公園

 藩政時代初期まで日蓮宗の寺があり、明治になって船岡の飯淵家(日蓮宗)の墓地公園となりましたが、飯淵家墓地は後に妙立寺に改葬されました。
大正時代から昭和初期には種々の木が植えられ、回遊して楽しめる散策の好適地と記録にあります。
大戦時に軍用地として大半が削られ昔の面影を留めるものはありません。当時は中腹に墓守の家があったと伝えられています。
昭和五十五年に山崎山「こどもの森」となり、久圓寺碑文と、妙髙山大光寺二十六世泰英老師の絶筆「三界万霊の塔」が建てられています。
公園内には、名木・古木40選に選ばれた山崎山のウラジロカシがあります。飯淵家墓所の象徴木で幹周1.8メートル、樹高15メートルです。

出典   柴田郡誌  柴田町史 柴田町の文化遺産・船岡編 日下龍生氏談

久圓寺跡(くおんじあと)現・山崎山公園 久圓寺跡(くおんじあと)現・山崎山公園

第一海軍火薬廠

船岡浮上

昭和七年(1932)の上海事変から、海軍で第二火薬廠設立の機運がたかまり、その準備、調査が始まりました。それに先立ち、東北地方は自然災害が相次ぎ、農村の疲弊は国家重要課題になっていました。政府は昭和九年に東北振興会を設置しました。これらのことが第二火薬廠を東北地方へ設置するという動きになったのは当然の成り行きでした。

 海軍の検討の結果、候補地が二つあげられ、原町(福島県)と船岡でした。地勢、交通の便から言えば、原町が最適だったのですが、船岡側の運動は猛烈で、当時の軍務局第一課長が北郷村(現角田市)だったこともあり、昭和十二年(1937)七月、船岡が建設予定地に決定しました。

第一海軍火薬廠へ

同年十二月B廠建設委員長の海軍大佐らが発令。建設用地530万平方メートルの買収、借地6千500平方メートルの契約交渉が始まりました。明けて昭和十三年に建設工事が始まり、予算合計は二億近くありました。当時の戦艦 長門、陸奥などの建設費に相当する額でした。

 昭和十四年八月一日、B廠は海軍火薬支廠として開庁しました。昭和十六年に制度の改正があり、平塚の海軍火薬廠が第二海軍火薬廠となり、船岡が第一海軍火薬廠となりました。これを期に第一海軍火薬廠は、製造部を第一と第二の二つに分離整備しました。従来日本では、陸海軍を通じて火薬、爆薬を一カ所で製造した例がなく、この時点で、第一海軍火薬廠は総合一大火薬廠としての地位と将来の発展を約束されました。
*以下第一海軍火薬廠は、第一火廠と表記します。
 第一火廠の歴史は、建設しながら生産、生産しながら建設という状況でした。戦局の拡大により、火薬や爆弾の種類や必要量が変化して、それに即応した体制の立て直しが必要とされました。
 建設にあたっては、周辺は沼地や谷があり困難を強いられました。一方山の斜面を利用した階段式工場は画期的な企画でした。取水、排水についても同様で、特に排水は多くの問題を起こしました。けれども戦時下において、排水問題に真剣に取り組んだ当事者の姿勢は特筆に値すると追想録で述べられています。

第一火廠で働いた人々

第一火廠の総人口は、終戦当時約1万400人、そのうち工員は六千人、約四千人は学徒や挺身隊で補なわれました。

豊穣之礎(土地改良事業竣工記念碑) 碑文

昭和三十五年 柴田町船岡東町ノ口

農業は四季の気象に支配され風水寒暑の災害を受け易く為に農家経済は常に不安定である。郷土の先駆者が父祖の土地を守り開発に余念がなかったのも皆これが安定を図るにあった。
戦後土地改良法、積雪寒冷単作地振興法などが制定されたが、この機に船岡町外一町一村土地改良在住農民の熱意は遂に多年の宿願であった排水並びに土地区画整理事業を完成させた。当地区は柴田町船岡、角田市神次郎・小坂、大河原町にわたり阿武隈・白石両河川の合流地点にある面積三九四町歩の低湿平坦の土地である。用水は白石川内親に発する水路で十六粁、排水施設は五間堀・大堀、さらに無数の細流に分派し、いずれも用排水兼用であるため井堰が多く排水の円滑を欠き勾配も不十分であるため降雨があれば冠水し随所に湛水箇所を生じる有様であった。昭和二十六年前町長柴田倫之助氏は地元有志と相図り県議会議員平野博氏の協力を得て前記悪水処理の排水事業を県営として施工するように請願、二十八年六月県営事業として着工を見た。水戸清治郎氏を理事長に船岡町ほか一町一ケ村土地改良区の誕生を見た。爾来六ケ年、事業費四四八四万四千円をもって三十五年に竣工した。こうして年間米一千三百石、麦一千二百石の増産を始め、労力・資金の節約、近代農業への転換の基礎が確立したのである。思うに本事業の成功は関係機関の指導援助によるとはいえ組合全員よく農魂に徹し一致協力による成果であって、その功績大である。その顛末を記録し、その功績を永く後世に伝うべく碑を建て記念とする。 (一部略)

秋本好則・記

治水豊穣

(県営湛水防除事業舟岡地区完工記念碑)
平成十年三月
柴田町大字下名生字大畑172

碑文

本地区は柴田町・角田市に接し、東に阿武隈川、北は白石川に囲まれ、更に市街地に隣接する平坦な水田単作地帯である。昭和三十四年三
月に県営小規模排水改良事業完成後、排水は三名生樋管及び五間堀樋管によって白石川と阿武隈川へ自然排水されているが、近年地域内の宅地開発や工業団地造成等の開発による流出増量と、阿武隈川の流域開発による流出増量、水位上昇継続時間の増による状況変化により、自然排水能力が低下し、湛水被害が生じることとなった。
然して、昭和六十一年八月の豪雨を契機に湛水被害を解消すべく排水機場設置等の強力な運動を行い、平成二年度に県営湛水防除事業の採択となった。
ここに関係機関の熱意により8年の歳月と28億の巨費を投じ、三名生排水機場と五間堀排水機場が完成した。(以下略)

清流不尽(県営水質障害対策事業船岡地区完工記念碑) 船岡新栄二丁目9-13

碑文

船岡の歴史を語るには船岡用水の200年の歩をまず知るべきである。明治二十五年に既成した、いわゆる六沼干拓計画により、農業用水を白石川に転換したものの相次ぐ災害に村財政は破綻し、村民の生活は極度に困窮し続けた。
かくの如き永い苦難の時代を経て、昭和二十九年県議会議員平野博、元町助役水戸清治郎らが船岡土地改良区を設立し、これらの問題に対応すべく町当局と共に内親堰の建設をはじめ船岡用水路等の施設整備を促進してきた。然るに近年、用水路沿線の市街化が進展するに伴う生活雑排水による用水汚濁など深刻なる水質悪化が問題となり、これの速やかなる対策が強く求められた。
かくして昭和四十八年、用水の清流化をめざし県営水質障害対策事業が採択着工するところとなり、爾来十五年の歳月と総事業費18億8
千700万円をもってついに完成をみることができたのである。(以下略)

妙法山蓮華寺

 妙法山蓮華寺といい、柴田氏が登米郡米谷の領主時代にその夫人の菩提寺として開かれたもので、天和元年(1681)柴田氏の転封とともに船岡に移りました。そのため柴田家中の多くの菩提寺になっています。(柴田外記の嫡男・宗意の時代)
当時は舩岡要害の鬼門に置かれ、舩岡の守護として開かれたようです。
境内に建つ碑によると、開山は日宗聖人とあり、開基として二人の女性の法名が記されています。
一人は登米郡米谷の開基で清香院妙詠日照大姉です。柴田兵部宗朝(外記の義父)の妻です。延宝三年(1675)に八十三歳で亡くなり、米谷(登米市)の蓮華寺に葬られています。
もう一人は船岡開基で蓮浄院妙受日悟大姉です。
 柴田外記朝意の嫡男・宗意の妻で、享保十三年(1728)に船岡で亡くなり、館山東麓の御廟に納骨されましたが、維新後大光寺に改葬されています。
 柴田外記朝意は妻のおさるを寛永十七年(1640)二十一歳で亡くし、吉松正澄の娘を迎えます。吉松正澄の妻は土佐の戦国大名・長宗我部元親(ちょうそかべもとちか)の娘でした。
 外記の母は阿古(あご)といい、父は土佐上ノ賀城主・佐竹親直です。阿古と長男で後の五十嵐蔵人、次男で後の柴田外記はともに大坂夏の陣で伊達家の捕虜となり仙台に来ます。阿古は中将の名で政宗の側近くに仕え、残された書状からは高い教養をうかがい知ることができます。このため政宗の信頼も厚く表には現れ難い奥向きで大きな働きがあったことが想像されます。隠居後は壽院を名乗り、嗣子外記のもとで余生を送り、承応二年(1653)米谷で七十四歳の生涯を閉じました。
法名 東泰院瑞宝妙祥親浄女。

渡辺葉子・記

鬼子母神とザクロ

 鬼子母神は夜叉の子供で容姿端麗であったため、周囲の夜叉から大事に育てられました。やがて半支迦(ハンシカ)に嫁ぎ、五百人とも千人とも言われるたくさんの子を産みました。しかし彼女は街へ降りてきては人々の子供を殺して食べたため、「鬼子母」と呼ばれ、恐れられました。
困り果てた人々はお釈迦様に鬼子母のことを訴えました。お釈迦様は末の子を鉢の底に隠しました。鬼子母は七日間、必死になって子供を捜しましたが見つかりません。最後にお釈迦様の許に行き、子供の行方を尋ねました。
お釈迦様は「おまえにはたくさんの子がありながら一人の子を失って、どうして悲しむのか。世の中の人々には一人しか子供がいない者もいる。その子をお前は食べたではないか。」と言われました。
 鬼子母は自分の非を認め、「もし、子供が帰ってくるなら、もう人の子は食べない」と約束しました。そこでお釈迦様は子供は鉢の底にいると教えました。
しかし、鬼子母の力では鉢の底から我が子を引き上げることが出来ませんでした。鬼子母はもう一度お釈迦様におすがりしました。
 お釈迦様は私の教えに従うなら助けようと言い、鬼子母は仏様の教えに従い、弟子になることで、ようやくわが子を手にすることが出来たそうです。
この話から鬼子母は「鬼子母神」として人々の安産や子供の守護神として信仰されるようになりました。
 また、日蓮宗の経典にも登場し、法華経の行者を守護する神にもなっています。
 ザクロは鬼子母神と一緒に描かれることが多い木です。日蓮宗では鬼子母神を諸天善神として奉っていますが、その姿は左手に子供を抱え、右手に吉祥果を持っています。吉祥果は縁起のいい果物という意味ですが、中国ではザクロを代用しました。その姿が日本に伝わってきたため、日蓮宗のお寺にはザクロが多いそうです。

秋本好則・記

鬼子母神 鬼子母神

北海道跋渉(ほっかいどうばっしょう)

 慶応四年(1868)は柴田意広や家中にとって大きな曲がり角でした。三月に柴田意広の父・意利が亡くなり、九月には母が亡くなりした。九月十七日に仙台藩は降伏し、引き揚げの命を受け、秋田から二十九日には仙台に戻りました。白鳥事件はそのようなあわただしいなか、十月二十八日に起きました。
鉄砲を撃った責任を問われた2人のうち森玉蔵が逃亡し、その責めが伊達宗家に及ぶことを避けるために十一月四日、意広は仙台の涌谷伊達家の屋敷で切腹してしまいます。そのため、柴田家中は動乱の最中に指導者を失ってしまいました。
追いうちをかけるように、明治元年(慶応四年)十二月に盛岡藩・南部家が転封になり仙台藩の南部五郡(柴田・刈田・伊具・亘理・宇田)を治めるという知他に移るか決めなければなりませんでした。意広の父・意利のときに、柴田家は勤皇派と佐幕派に分かれて争いましたが、今回の選択をする時に再び争いが起きてしまいました。
この頃、亘理では亘理伊達家家老の常盤新九郎が中心となって、北海道移住開拓を新政府に願い出ました(明治二年五月)。これを知った柴田家の旧家老・大和田三郎兵衛は六月に廻状をして蓮華寺に家中を集め、北海道跋渉を相談しています。
亘理の伊達邦成は移住地の北海道有珠郡を見て明治二年十二月に亘理に戻りましたが、大和田三郎兵衛が柴田家有志総代として同行の取り成しを願い出ています。邦成は角田の県役所に願い出て許可されました。柴田家中では舟岡に残って帰農し、幼君を擁護養育しようとする筆頭家老・入間田求馬派と、北海道移住を勧める旧家老の大和田派とに別れ、「悪人」、「悪徒」と口を極めることになってしまいました。
北海道移住の人数は次の通りです。
第1回 明治三年三月二十七日 長鯨丸で5人
第2回 明治三年八月八日  陸路で14人
第3回 明治四年二月七日 猶龍丸で81人
第4回 明治五年三月   庚午丸で23人(意広嫡子・意成と四人の姉を含む)
この後も明治九年まで移住が続きました。およそ350人が北海道へ渡ったと考えられています。移住後は邦成公支配の一画に集まって住み、その地を「舟岡」と名づけました。
一度仲たがいしましたが、昭和五十七年の有珠山噴火の見舞いをきっかけに、「歴史友好都市」として昭和六十三年に交流が始まりました。移住した人々は舟岡会を作り、現在も大和田氏を中心に、子孫の方々が集まって会を続けています。
東日本大震災の折も多くの援助を受けています。
では、どうして北海道の有珠郡に移住地が決まったのでしょうか。亘理伊達家でも「北の湘南」と言われる有珠郡に決まったことは予想外のことで、政府内でさえ「朝敵たる仙台藩人に有珠郡のごとき結構な地を割渡すことは向来注意せらるべし」といわれるくらい意外なことでした。
当時は、仙台藩がかって蝦夷地警備に任じられていた日高地方と考えられていました。一説によると、当時の開拓使は薩長閥で占められており、桜島の噴火で火山の大変さを実感しているため、有珠山の火山灰で覆われた廃地を割り振ったという説もあります。
彼らの開拓の陰には、伊達邦成公の養母・貞操院の励ましがありました。貞操院は仙台藩十一代藩主・伊達斎義公の姫君(保子)で、17才で亘理伊達家に輿入れしています。この貞操院が質素な家に住み、食器にも事欠き、帆立貝の貝を代用していたそうです。そのため、唇の両端がいつも切れていたそうです。それで も毎日のように手製の団子を開墾場で配っていたという逸話が残っています。
明治七年には西洋農具が導入され、和式用具の長所も併用した農耕が進み、「北海道農業発祥の地」と言われるほどになりました。

柴田町史、伊達郷土史研究会誌「伊達の風土」第19号より
秋本好則・文



蓮華寺境内の枝垂桜(シダレザクラ)

 山門を入ると、左側に見事なモミノキがあり、右側にまだ若木ですが数本のシダレザクラが見られます。故柴田倫之助氏が調査されたノートには伊達綱村が榴ケ岡にシダレザクラを植栽し、城下に憩いの場を作った時、用意された苗木の一本を賜り蓮華寺に植えたとあります。
昭和四年の仙南日日新聞には名所の一つに蓮華寺の桜が挙げられています。記事によると米谷から転じた時に移されたものとあり、樹齢二百数十年とあります。
ご住職に伺いますと古木があったが、昭和三十年のアイオン台風で倒れた。今あるのは古木の株から生えたものではないか、ということでした。

出典 柴田郡誌 柴田町史 柴田町の文化遺産・船岡編 日下龍生氏談
渡辺葉子・記
秋本好則・追記

直木賞作家大池唯雄(おおいけ ただお)の墓

 昭和十三年下期の第八回直木賞を受賞した作家大池唯雄は本名を小池忠雄といい、墓地内小池家の墓碑にその名を見ることができます。
大池の父親は柴田町四日市場の小池林治といい、横須賀の砲兵学校を卒業、東京湾要塞砲兵隊から日露戦争に従軍しています。母は吉野兵次郎の娘やしよといいました。兵次郎はもともと大槻氏で、戊辰戦争では二人の兄と共に秋田口(あきたぐち)に従軍しています。大池の直木賞受賞作「秋田口の兄弟」は祖父たちの体験を基にした作品です。
大池は幼くして父を亡くし、母の手一つで育てられ旧制第二高等学校から東北帝国大学法文学部に入学、経済史を研究していましたが、病気で退学。病床にあって国史や戦争史を学び、短編を書き始め、受賞作もそうしたなかで生まれたものでした。昭和四十三年四月から河北新報に連載された『炎の時代 明治維新の人々』(昭和四十五年十月三十日 河北新報社刊)が最後の作品となりました(昭和四十五年五月二十七日逝去、六十一歳)。

渡辺葉子・記

本弟山普門寺

 真言宗船迫にある大光院の末寺で元禄五年に祐舞法印の開山と伝えられています。藩政時代は中央の鎮護祈祷所でしたが、廃藩に伴い廃寺になりました。大光寺の也寥和尚と共に語られる孕露庵西坡(ようろあんせいは)の辞世の句碑があります。
「死ンだ迚(とて)それきりの沙汰露寒し」
柴田郡史によると、元普門寺境内、石田氏の屋敷の五輪小路に面したところにあると書かれていますので、今とは違う場所にあったのかも知れません。碑の側面には文化二年(1805)九月二十一日とあります。西坡の没年と思われます。

普門寺のサクラ

普門寺には明治四年の仙南日日新聞に紹介されているように、見事な桜の大木があったと伝えられています。現在は枯死して、株だけが残っていますが、役場職員の手で、普門寺サクラ二世が育てられています。この桜はウバヒガンザクラで、船岡で一番早く花を咲かせます。

柴田郡史、柴田町の文化遺産・船岡編
渡辺葉子・記

白鳥神社

 「白鳥神社由緒」によると、元禄十二年九月船岡館主柴田源四郎 藤原朝臣宗理領内四保山頂ノ地ヲ相シ平村延喜式内社大鷹宮ヲ勧請創建シタルモノニテ明治八年九月十五日白鳥神社トシテ村社ニ列セラレ明治十二年内小路ノ現在地ニ移転ト共ニ村内ニアル愛宕神社、秋葉神社、大沼水神社、八幡神社、朝意神社ヲ合祀シ同四十年熊野神社合祀ス。
とあります。
現在の場所は柴田家の武術場・明了館のあったところで、維新の当時は学校になったこともありました。
柴田・刈田両郡には白鳥を神の使いとする信仰があり、大河原金ヶ瀬の大高山神社、蔵王町宮の刈田嶺神社、村田町の白鳥神社の三社は江戸時代には白鳥明神の名で信仰を集めていました。
祭典は、四月十八日に例大祭(神輿渡御)。八月二十四日の熊野水神宮祭は夜祭で、俗にべんてん祭りと言います。昔、朝意祭(旧三月二十七日)は俗に「くさもちまつり」と称し、特に草餅を献供していました。
 境内に柴田外記朝意胸像があります。

渡辺葉子・記

白鳥事件

 慶応四年(1868)〈九月より明治元年〉に隣町の亘理町に進駐してきた安芸広島の新政府軍兵士が阿武隈川を渡り、柴田町に来て白鳥狩りをしました。白鳥はこの辺りでは大鷹明神のお使いとされていて、柴田町にも村田町にも白石市にも白鳥神社があって祀られています。
住民も撃たないように嘆願しましたが、聞き入れられませんでした。
十月二十八日にも白鳥狩りが行われ、鉄砲の音を聞いた小松亀之進と森玉蔵らが怒って阿武隈川を帰っていく兵士に向かって鉄砲を撃ってしまいました。弾は渡し船の側壁に当たったといわれていますが、新政府軍はその責任をとがめ、両名捕縛を仙台藩に求めました。柴田家で両名を捕まえて仙台に送りましたが、森玉蔵が途中で逃亡してしまいます。
これに怒った新政府軍の高橋参謀が逃亡の責任を主人の柴田意広に求め、太守(伊達慶那)の謝罪にも影響がでると話したため、類が及ぶのを避けるため、柴田意広が切腹することになり意広は十一月四日に仙台の涌谷伊達邸で自刃しています。
 また、藩は逃亡した森玉蔵の代わりに義兄の森文治の首を出しました。
 森玉蔵も明治二年に捕縛され、斬首になりました。新政府軍に鉄砲を撃ったということで四人の命が失われたという事件です。
 柴田家ではこの事件で家の中心を失い、明治期の混迷期に混乱してしまいます。

出典 柴田郡誌 柴田町史 柴田町の文化遺産・船岡編 日下龍生氏談
渡辺葉子・記