ものがたり

櫻井喜市 - わけへだてなく命を救う

櫻井喜市櫻井喜吉は槻木村(現在の柴田町槻木)で診療所を開いていました。

ある夜のことでした。
「喜吉先生、空けてください。どうかこの子を、ミヨを助けてください。」
すがりつくようなその声に目を覚ました喜吉が戸を開けると、一人の母親が飛び込んで着ました。月明かりをたよりにのぞきこむと、背中に小さな女の子をおぶっていました。
母親の名はセツ。どうやら、船迫(現在の柴田町)から約3キロメートルあまりの夜道を歩いてきたようです。そのころ、船迫では病気が流行していました。さっそく、診療室に招き入れ、横たえたその子の脈をとりました。喜吉は、すぐさまておくれであることに気づきました。
落ちくぼんだまぶた、小枝のようにやせ細った手足、とぎれとぎれの脈。手のほどこしようがない状態でした。
診察の様子を見ていたセツが
「先生、ミヨはもう助かりませんか。」と、不安そうに問いかけました。
「残念だが、もう少し早かったらなあ。」
その言葉を菊やいなや、セツは声をあげて泣きくずれました。わが子の名をくり返し呼び続けるセツのさけびにも似た声だけが、静まりかえった部屋中に響きわたりました。そのセツの姿を、機吉はじっと見つめていました。

そのころの船迫の人たちは、少しでも早く診察を受けたいと思っても、治療費を薬代もはらう余裕はありませんでした。誰よりも喜吉はそのことを知っていました。そのほかにも、船迫の人々が診察に来られない理由がありました。診療所までの奥州街道は、昼間でもうす暗く、夜になると追いはぎがでる危険な道でした。今でこそ車で十数分の距離ですが、当時の人々にとっては決して楽な道のりではありませんでした。船迫には診療所はありません。このまま村中に病気が広がれば、命を落とす人が増える心配がありました。
「船迫の人たちを救えるのは、喜吉先生しかいない。わたしたちもできるかぎり協力する。どうか頼む。」
現状を見かねた地元に住む大沼半左衛門と高橋兵十郎が、協力を申し出ました。考え抜いた末に、喜吉は船迫にも診療所を作り、日曜日に診察することにしました。さらに、治療費はすべて無料にし、薬代も喜吉が負担することにしました。こうして「日曜診療所」が誕生しました。
喜吉はますます忙しくなりました。奥州街道を人力車でかけぬけながら、診察に通い続けました。日曜日が来るたびに診療所は、喜吉の到着を待ちわびる人であふれかえりました。
「喜吉先生、一番に見てもらいたくって、ずっと先生を待っていました。」
さっそく男を診察してみると、あばら骨が見えるほどやせ細っていました。目もうつろで息も絶え絶えでした。かなり重い病気に違いない。このままほうっておいては命が危ない。喜吉はさっそく薬を用意して持たせ、おかゆも差し出しました。
「本当にいいんですか。」
「安心しなさい。あなたの喜ぶ顔を見ると、わたしも元気が出るのです。」
腰の曲がったその男は、何度も何度も頭を下げながら帰っていきました。
「先生、この子は昨日中から体じゅうをかきむしって、とうとう地がにじんできました。何かとんでもない病気かと思うと心配で、心配で。」
「心配ご無用、体をきれいにふいて、この薬草をつけなさい。すぐに治るから安心しなさい。」
喜吉は小さな女の子の手に薬をそっと置き、力強くにぎりしめながら言いました。女の子はにっこりほほえみ、うなずきました。気がつくと、もう日が沈みかけていました。喜吉はかさつく両手を洗いながら、ふうっと大きく息を吐き出しました。
喜吉が診察した病気は、リウマチなどさまざまな種類にわたっていました。機吉は昼も夜も夢中で働き、たくさんの人の命を救いました。
「喜吉先生は命の恩人だ。」
「先生、わたしはお金はありませんが、家でとれた大根ならあります。どうか、これを受け取ってください。」
いつしか日曜診療所には、喜吉をしたう人々が集まるようになりました。わけへだてなく人々の命を救うために全力を傾けた喜吉を姿は、地域の誇りになりました。明治二十六年(1893)から十一年間にわたって日曜診療所を開設され、診察した患者の数は二千七百人に上りました。
喜吉がこの世を去ったとき、人々はとても悲しみました。そして、喜吉の髪の毛をまつろうという声があがり、髪塚として今も船迫に残されています。「一人の命も無駄にしない」という思いを生涯つらぬき通した喜吉の思いや志は、時代を超えて今も語りつがれています。

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