平成船迫ものがたり

平成船迫ものがたり

奥州道中 増補行程記

江戸日本橋江戸日本橋
橋のところに「橋ぎぼうしに万治元年九月吉日 お鋳工 椎名兵庫頭と有り」、「日本橋 江戸の中央とす橋長二十八間」とあります。
 その右側に高札「定 親子兄弟---武家諸法度に--- 文武忠孝---右略し侍る」 「一里の塚の始めとし、諸方行程を定む 一里塚は無し 諸舟通行多し」  下に「御城 御棲 松の間より十四五見えて候御本丸 西御丸 二御丸 三御丸 五御丸 北御丸数千丈の石垣、いずれの匠か削りなせる、------」右上に「十文字横丁 碁盤の目に似て候」

「増補行程記解説文 東洋書院「奥州道中増補行程記」より

 日本橋に魚を商う店が多いこと、香具や絵師 仏師縫物師 琴 三味 つつみ師が見られるとあります。 

「増補行程記」は盛岡南部家中に伝わる絵図で、
盛岡市中央公民館の所蔵になっています。
盛岡藩八代藩主 南部利宝公の命を受けて、同藩士 清水秋全は寛延四年(1751 )に著作したものです。
江戸日本橋から盛岡城下の中の橋までの百四十里 (560Km)を奥州街道に沿って、宿駅、一里塚、並木を始め、名所旧跡や名産品、神社仏閣などが故事旧聞を交えて描かれています。
奥州街道を描いたものではこれほど詳しい書物は無く、奥州街道の調査や地域の歴史を知る恰好の資料になっています。仙台領については、街道沿いに松並木があったこと、金ケ瀬から船迫までは漆の木か多くなり、それ以降は松並木に戻ることが描かれています。中田宿(仙台市太白区)では、「この宿海近く魚多し、鯛一番は五十銅、下二番、下三番と続き、・・・ 御国では三百銅」と、盛岡では中田宿の六倍
の値がしたと書かれています。
松尾芭蕉の「おくのほそ道」は元禄二年(1689)ですので、この絵図は六十二年後に描かれたことになります。また、伊達騒動の寛文事件は寛文十一年(1671)ですので、八十年後に描かれました。
この絵図を見ると、今の地図と違って、北から南側を見下ろしたように描かれています。したがって右が江戸、左が盛岡方面になります。
ルート図にコースとこの絵図を並べていますが、矢印が交差しているのは、このような理由です。

増補行程記の使用は盛岡市歴史文化館長より許可をいただいています

船迫の由来

安永七年(1778)七月の「柴田郡船迫村風土記御用書出」には、当村往古十八津入屋敷前通入海ニ有之候処、何方ヨリカ丸木舟ニ乗リ尼一人来。
右船迫リ沈申候ニ付、船迫ト村名ニ唱来申候。
十八津入屋敷前通田丁之内、右舟沈候跡、舟之形仕、今以残居申候事。
とあり、古くから次のような伝説が残っています。
「いつの頃か、何処よりか、ある日十八歳になる美しいお姫様が、ひとり小舟に乗って、この地に流れて来た。そして入海(迫)に迷い込み、舟は流れの渦に巻き込まれ、姫は舟もろともに沈んでしまった。舟の沈んだあたりを十いり)と云い、また、この地方を船迫と呼ぶようになった。この話を裏付けるように、舟形の小塚がつい最近まであった。
お姫様が、なぜこの地まで来たのか、次のように話す人もいる。
このお姫様は白石川の上流に住む長者の娘だった、と。岩城(船迫の小字)辺りの長者か館主の若君に想いを寄せ、ひとり小舟を操り尋ねて来たが、場所を間違え尋ねあてるすべもなく、失意のため入水したと。」
舟の沈んだ場所といわれる舟形の丘も昭和五十年、この地が高校建設計画用地として整理されるまで、田の中ごろに残っていた。
この伝説の起り、即ち船迫の地名の生まれた年代はわからないが、「吾妻鏡」に、文治の役の際源頼朝が船迫八娘にあやかって十八津入(くぐつ駅に留り給う、の記事、及び今出真治氏明治二十七年の記録に「往古にありては船迫長門守の領せし土地にして(中略)文治年間源頼朝奥州征伐の時、氏、之と戦い、破れて一族悉く離散」云々とあるので、それ以前からこの地を船迫といっていただろうとは推察される。

出展:船迫あれやこれ
豊川光雄・記

奥州街道 船迫宿

 藩政時代、江戸幕府は江戸を中心とした体制を整えるために街道の整備をしました。奥州街道は日本橋を起点とする主要街道の一つで、遥か青森三厩へと至る長い街道です。
江戸への道筋として船迫宿が作られました。今の新しい町づくりと同様に、丘を崩し、低湿地には盛り土し、散在していた住民をここに住まわせ、現在も「七曲り半」と呼ばれる特別な宿駅を作ったものと思われます。
船迫村の「風土記御用書出」には「一、当村舟迫町と申す宿場あり、長さ下町三丁、中町一丁廿七間、古町(上町か?)一丁、都合五丁廿七間、家数九十二軒御座候」とあり、更に「馬七十疋」貫三百八文 内茶畑代百七十文」などと記しています。明治四十五年頃の町屋敷七十五戸からみても、かなりの町であったと思われます。
江戸への道筋で、茶屋あり、宿屋あり、人夫の溜り場ありで、かなりの賑やかさがうかがわれます。今でも(?)検断、粉屋、ふく茶屋、油屋、酒屋、茶屋などの屋号が残っていますし、造り酒屋、湯屋のあった屋敷なども二、三判明しており。道中井戸と思われるものも残っています。
風土記御用書出にみえる荷駄賃は次のとおりです
大河原へ 本荷五十三文・軽尻三十五文・賃夫廿七文槻木へ 本荷五十文・軽尻三十三文・賃夫廿五文船岡へ 本荷十八文・軽尻十二文・賃夫九文

【本荷(ほんに)】馬に四十貫(約百五十キログラム)の荷物を付け運送する際の運賃。米では二俵で一駄。
【軽尻(からしり)】本荷の半量を一駄とする荷物。馬一頭に二十貫目(約七十五キログラム)の荷物又は人と五貫目の荷物を付け運送する際の運賃。本荷(一里四十文)の三分の二。
【賃夫(ちんぷ)】賃金で雇った人夫。

奥州街道 船迫宿

出典・船迫あれやこれ他
豊川光雄・記

藩政時代の村役人

藩政時代には村に肝入、大組頭、五人組頭という役人、槻木や船迫、舟岡の宿駅には検断という役人がおかれました。柴田郡は北方、南方の二つに分けられ、各々に大肝入が置かれていました。槻木分十ケ村は北方に、舟岡分四ケ村は南方に属しました。
当時の仙台領の支配は、柴田郡を管轄する南方のほか北方、中奥、奥の4つに分割支配され、各地区に郡奉行が任命されていました。郡奉行は常時は 仙台にいて、春、秋の2回担当区域を巡回していました。
郡奉行の下に郡ごとに代官が任命され、柴田町は柴田・刈田代官区に属し、大河原と白石に代官所がありました。
郡奉行や代官は指示をするだけで直接徴税等にはかかわりませんでした。実際に徴税等を行ったのは村の役人でした。
大肝入は年貢や諸役郡役を免除され、苗字帯刀も許されていました。大肝入の役所は「会所」と呼ばれ、南方の大河原にありました。
肝入(関西地方では庄屋)は一般の農民と違って、その屋敷に門を構えること、母屋に式台を設けることや、着衣や履物にも特例が許されていました(絹物や雪駄の着用)。 日常業務を自宅で行い、肝入宅には組頭等の村役人が集まり、年貢・村入用の割当てを行いました。領主から命じられる諸帳簿や、村より領主への願書類等の作成の他、領主からの触書、廻状類は、それを帳面に書き写して、原文を定使に命じて隣村へ持って行かせました。
ほとんどの公文書には肝入の署名・捺印が必要とされ、村人相互の土地移動(主として質地)にも肝入の証印が必要とする場合が多く、それゆえ最低限の読み書き算盤の能力が必要でした。
肝入を補佐したのが村組頭で肝入の推挙で任命されました。組頭の下に約五軒ごとに五人組頭が置かれ、法令の伝達や百姓が出す願書や届書への連名や犯罪の防止など、一切の行政を担当しました。
検断は宿駅に置かれた役職で、宿の伝馬、加人馬(助郷)などの運送の仕事をしました。
そのほかに地方役人として妊産婦や赤子を調べ、指導する赤子制導役、山林の管理をする山守などがありました。

藩政時代の村役人

広報しばたより
秋本好則 記

船迫の植物

船迫の植物

みつばうつぎ(ミツバウツギ科)

 落葉低木で山地の樹下に生育します。
高さ 3メートル前後まで育ち、幹の太さ10センチメートル位までになります。
若葉は食用になり、てんぷら、油いため、煮びたし、汁の実、和え物、菜めし等として食べられます。
また、乾燥した実は薬用になり、下痢止めとして用いられます。
材質は堅く、木釘や箸の材料ともなります。
柴田町では多くの所で育ちますが、雑草とともに刈られることが多いためか、成木はあまり見られないようです。
船迫で、見られる植物
船迫には旧白石川系がわずかに残っていますが、そこに他では珍しくなった水生植物が生育しています。
セキショウモ、コウガイモ(共にトチカガミ科)、オオミクリ(ミクリ科)などです。
いずれも絶滅危惧種Ⅰ類(宮城県)に指定されています。オオミクリの花や実は緑色で栗の鞠に似てます。
セキショウモやコウガイモの花は2~3mmでほとんど目立ちません。
でも、冬鳥(かも類)の大好物で、水草のあるところには狭い水路でもやってくることがあります。

船迫地区の名木・古木

平成九年三月、柴田町制施行四十周年記念事業として「名木・古木」が四十本選ばれています。
・地域の象徴として親しまれているもの・由緒ある樹木であるもの・相当の年数を経た老木であるもの・その他名木・古木として相応しい樹木であるものが選定基準でした。
船迫地区には次の樹木が選ばれています。

不動堂のフジ

・樹種:マメ科 フジ
・幹周:2.1m
・樹高:15.5m
・推定樹齢:400年
・所在地:本船迫字寺後75番6
・所有者:大光院
・昭和三十年三月二十五日宮城県指定の天然記念物となっています。
・カヤに絡まった状態で生育しています。五月頃うす紫色の房状の花が咲き、麓からも見られます。フジは山野に自生しますが、古くから庭などによく植えられ、主に棚づくりに利用されています。
蔓は長く伸び、他の木などに右巻きに巻き付き丈夫で、昔は篭を編んだり、物を縛るのに使われました。

本船迫のキンモクセイ

・樹種:モクセイ科 キンモクセイ
・幹周:1.6m
・樹高:5.5m
・推定樹齢:不明
・所在地:本船迫字上町6
・所有者:安藤吉男
・安藤吉男氏の屋敷内にあるキンモクセイの巨木で、管理が良く、樹勢も旺盛です。

薬師堂のサクラ

・樹種:バラ科 エドヒガンサクラ
・幹周:2.4m
・樹高:15.0m
・推定樹齢:270年
・所在地:本船迫字館山4
・所有者:大光院
・「種あげサクラ」と呼ばれ、サクラ前線に先がけて開花し、農作業の目安でもあり、地域の象徴としても親しまれています。

熊野神社のウラジロガシ

・樹種:ブナ科 ウラジロガシ
・幹周:3.0m
・樹高:13.5m
・推定樹齢:不明
・所在地:本船迫字上町51
・所有者:熊野神社
・社殿の左側にあり、古木としての風格があり、神域を形成しています。

大光院のタブノキ

・樹種:クスノキ科 タブノキ
・幹周:2.2m
・樹高:14.0m
・推定樹齢:不明
・所在地:西船迫一丁目12番12
・所有者:大光院
・町内のタブノキでは巨木であり、暖かい地方の主として海岸地に多い常緑高木です。別名イヌグスとも言います。

不動堂のカヤ

・樹種:イチイ科 カヤ
・幹周:3.7m
・樹高:16.0m
・推定樹齢:500年
・所在地:本船迫字寺後75番6
・所有者:大光院
・天然記念物「不動堂のフジ」を支えているカヤの古木です。南側の根元40cmの所より長さおよそ1.6mの空洞が見られます。

出展:柴田町制施行四十周年記念事業「柴田町の名木・古木」平成九年三月発行
豊川光雄・記