コース詳細

大光院

 寺の門前に「真言宗智山派 松光山大光院神宮寺」という大きな石の標柱が立っています。神宮寺とは神仏習合の時代、隣にある熊野神社の附属寺だったことの名残りなのでしょうか。
この寺は京都醍醐報恩院の末寺とされ、天安二年(858)柿本紀僧正の開基といいますから、たいへん古く、弘法大師が真言宗を開いて五十年しか経っていないのです。至徳元年(1384)法印祐真中興開山と伝えられています。寛政の頃(江戸末期)堂宇ことごとく灰燼に帰し、後再建され現在に至っています。格式も高く柴田郡内に十カ寺ほどの末寺がありました。今は町内の葉坂寺(ようばんじ)と大河原の教性院、白石の毘沙門寺の三寺だけとなりました。
寺宝として「絹本着色両界曼荼羅」「鉄造阿弥陀像」(ともに県指定文化財)、古墳時代の風穴遺跡(本船迫鹿野)から出土された「須恵器大甕」(町指定文化財)などがあります。曼荼羅は金剛界と胎臓界の二幅あり、それぞれ1.8メートル×1.3メートルという大きな絹地にたくさんの仏像が描かれています。これは仏様たちの悟りの世界を表わしているとされています。中将姫が織ったと伝えておりますが、「至徳二年表具」の裏書きがあります。毎年一月と八月の十六日にご開帳が行われます。
鉄仏は五智如来として五体あったのが今は四体で、鎌倉時代の文永三年の銘があります。言い伝えによりますと、土地の豪族立石長者が無間地獄の苦しみから救われるようにと奉納したもので、村に何か異変が生ずると汗を出し(結露現象でしょうか)知らせるとのこと。土地の人々は「汗かきあみだ」として尊崇しています。
 また、大般若経六百巻も納められています。寺域は広大で老杉が鬱蒼と繁り、町の名木になっているタブの木もあります。本堂や経堂など付属の建物も新しくなり、千年の古刹にふさわしい佇まいです。
先代運聖師は柴田町に勤務のかたわら、郷土史研究に多大の貢献をされました。太陽の村の日時計は先代夫人の建立になるものです。
ご本尊は大日如来。柴田郡三十三観音第七番札所(千手観音)。
住職は第三十一世芳賀運覚師。

出典:広報しばた平成二十年二月号、之波太の光
豊川光雄・記

熊野神社

 祭神 神祖熊野櫛御食野命(かむみおやくまのくしみけのみこと)延喜元年(901、平安)源朝臣重之、紀伊国牟婁郡より勧請と伝えられ、熊野山清明坊宝珠院社務に預る。旧号熊野大権現、明治五年(1872)四月熊野神社と改称、村社に列せられました。
後、十八津入の八幡社(祭神 応神天皇)、岩之入の天王社、千代の川の愛宕神社(祭神 加愚突知命)、船迫上町の三島社(祭神 積羽八重言代主命)の四柱を合祀。民間行事、鎮守講、山の神講あり、毎年春秋の祭事を行っています。
社殿左側に柴田町の名木・古木に選ばれた「熊野神社のウラジロガシ」があります。

出典:之波太の光、他
豊川光雄・記

河川測量基標

河川測量基標 日本最初の河川法は、明治二十九年(1896)四月に制定されました。この法律は河川管理者を原則として都道府県とし、必要に応じて国が工事を実施する体勢を定めたものです。当時相次いで起こっていた水害の防止に重点をおいたもので、以後日本の大河川の改修はこの河川法の下で実施されました。
この法律に基づき、宮城県では明治三十七年七月、北上川・阿武隈川及びその支流の川で測量が実施されました。
河川測量の範囲は、阿武隈川では、丸森町丸森橋付近から海に至る区間及び白石川の一部です。明治三十七年六月発行の宮城縣報に河川測量のため設置した基標の位置が掲載されています。
測点番号:第二十五號河川名:阿武隈川 左岸所在地名:柴田郡槻木村大字船迫小字土平山根
この標石には、「基標/宮城縣/第二十五號/明治三十二年」の刻字が
あります。
柴田町には七か所に「基標」が設置され、現存するものは他に「第二十四號・槻木村大字入間野小字北中原國道(白幡・八幡神社鳥居近く)」があります。 

豊川光雄・記

白石川改修工事

白石川改修工事  明治時代の船迫の災害記録は、次のとおりです。
明治22年、23年、30年、40年、43年、45年、大正2年の水害。
明治32年の大風、35年の雨天冷害大嵐大凶作、明治38年の凶作霜害、41年の冷害、42年旱魃、
明治44年の増水。
 特に、明治43年の水害は前古未曾有の大洪水でした。また、大正2年の大洪水での白石川出水量は「大河原町に於いて出水2丈1尺(6. 3メートル)、金ケ瀬・槻木・船岡にて2丈(6メートル)、沼辺村にて1丈3尺(3. 9メートル)、村田にて1丈5尺(4.5メートル)を示し」とあります。
「上野青森間鉄道院各駅中水災の被害甚大は槻木大河原両駅間を以て最大となす。鉄路の欠潰大河原5ケ所、船岡付近2ケ所、槻木1ケ所、欠潰破損合計1390間、かくの如き恐るべき線路の破壊は国家経済上の一大損失は言を俟たず。
鉄道院に於いて大河原駅線を船岡館山東南方に移転して従来の水災を免れんとの意向を以て実査測量を試みたが工費120万円内外を要す。宮城県治水策の進捗、即ち白石川改修を期して鉄道の保全充分なりとせば、若干の補助支出も肯ずべきとなし、移転説は等閑に付された。」
宮城県知事は治水調査会を招集し、次の決議をしました。鉄道院補助58万8千円。国庫補助0円。県支出14万7千円。合計73万5千円。
この決定により白石川改修工事は県の直営として直ちに着工され(大正六年一月二十八日改修起工式)、大正十四年に第1期工事の完成をみました。73万円余の当初予算は、九年には177万円に改訂されました。船迫に迂回していた水路が現在のように直進するようになったのは大正十二年のことです。
 「船迫下町契約講」に次のような記録があります。
「白石川旧川締切従来の白石川、牛堂を船岡村中原に新川出来上りたる故に、古川本年度(12年)1月12日〆切せり。」「船迫あれやこれ」の著者安藤長吉氏は「これ以後船迫に水害はなくなった。白石川の河道も今後移動することはないだろう。」と注記しています。

出典・柴田町史、船迫あれやこれ
豊川光雄・記

明治天皇東北御巡幸

第一回御巡幸

明治九年六月二十三日
「明治天皇聖蹟史」によると、「午前七時刈田郡白石町白石小学校の行在所をご出発、陸羽街道を北進し、新たに架した白石橋付近に於いて故参謀世良修蔵の墓に木戸孝允を差遣す、八時十五分宮村字町阿部伝内方にて御小休更に観音坂、新坂、檪林坂等経て金ケ瀬村大字平字町山家佐市宅に御小憩、十一時過大河原町高山庄吉宅にて御昼餐を取らせられ、十二時半頃ご出発、午後一時十分槻木町大字船迫安藤伝九郎宅にて御小休、二時十七分同町入間野猪俣伝次郎宅にて御小憩あり、午後四時十五分名取郡岩沼町鎮座県社竹駒神社社務所に御一泊遊ばされたり」とあります。

第二回御巡幸

明治十四年八月十一日船迫安藤伝九郎宅にて御小休されました。
御巡幸の際の御小休所の修理その他の経費は大蔵省から支出されました。金36円13銭4厘。
また、御下賜金として、第一回:50円(火災後の新築した時)第二回:15円「船迫あれやこれ」によると、明治七年船迫に大火があり、中町から下町まで全焼しました。その後復興が進められたものの未完成の建物が多くあったようです。
そのなかで安藤勝治さんの家は総杉の木で大きく建ててあったので、陛下の御休憩所に選ばれました。
しかし農家の玄関は天皇を迎えるのにはふさわしくなかったので、別に造り替えられました。
当時の玄関は今はありませんが、その後この家の屋号を「新屋」と呼ぶようになりました。
現在、安藤さんの庭には「明治天皇聖蹟碑」が立っています。

出典・柴田町史、船迫あれやこれ
豊川光雄・記

櫻井喜吉先生の髪塚

櫻井喜吉先生の髪塚 櫻井先生の永眠を知った船迫区民は先生の死を悼むこと甚だしく、恩愛の念から先生の墓碑を建てることになりました。先生の髪の毛をわけて頂き、館山にこれを葬り供養しました。これが髪塚です。地所は館山頂上近くの平ら地で、大沼惣右衛門、溜屋(船岡、飯淵家)、坂元(成田、大沼家)の三氏の寄附によるもので、約二段歩ありました。
 子息の櫻井剛氏の時代に、この地に杉の木その他を植林し、そのまわりに桜の木を植え墓地公園としました。この時、高橋千三郎夫妻は櫻井先生にお世話になったことなどから墓所の管理保存に努めました。

 昭和四十年代になり、この地区にゴルフ場が建設され、この髪塚一帯も買収されました。そのため館山下、旧国道傍の宮城長清さん所有の畑の一部を寄附していただき、ここに髪塚を転葬して、現在に至っています。

出典 舟迫あれやこれ

髪塚の由来 (碑文読み下し)

髪塚の由来 (碑文読み下し) 以前、船迫地区は医療機関に恵まれず、伝染病などに苦しむ者少なからず、これを憂えた地区の有志は槻木の医師櫻井喜吉とはかり、明治二十六年、無料の日曜診療所を開設し十一年間に及んだ。その間治療を受けた患者は延べ二千七百人に達し、これにより地域の衛生状態は大いに改善され、病人は激減した。
地区民はこれを徳とし、頌徳碑を阿弥陀堂跡に建て、さらにその遺髪を乞い船迫館山に髪塚として祀るも、昭和四十年にゴルフ場となったため、宮城長清氏の土地の寄附を受け、この地に髪塚を移す。

診療所開設百十年に当たり改めてその由来を記す。

平成十五年十二月十日
櫻井 時雄 撰

御殿山

 国道4号西船迫の交差点から左折し、本船迫上町に入ると、間もなく右手に松の緑に囲まれた、「御殿山」と呼ばれる小高い丘が見えてきます。高さ20メートル、南北約100メートル、東西25メートル、周囲250メートル、平場に独立した丘陵で、台上の周りは約60メートル、山のゆるやかな坂道を登ると、高橋裕一氏(代々兵十郎)の居宅がありますが、船迫城は前方に相対する形となっています。
 御殿山の来歴については確たる史料はありませんが、「柴田郡誌大正十四年刊」を見ると「館山(舟迫城)の西方一町ばかり(約110メートル)に御殿山あり、源頼朝の御座所であった。」とあり、特に地形上から推しても当時の最高支配者にふさわしい場所としては疑問もあります。
また、さきの後三年の役(1083)源義家、奥羽東征の時にこの丘に陣屋をおいたところとも言い伝えられていますが、もちろん定かな史料はありません。
 しかし、舟迫城との位置などからして何らかの関連はあるだろうとは推測できるところでもありますが、この地付近に古くから言われた、「お仮屋」「千陣坊(先陣ともいう)」などの由来の究明とともに「御殿山」のもつ性格、機能など、さらに明らかにされなければならないと思います。

出典:柴田町の文化財第10集 城と館
豊川光雄・記

柴田町由緒ある地名保存標示柱(北船岡地区)

柴田町由緒ある地名保存標示柱(北船岡地区)「二本杉」

町道北船岡12号線歩道(北船岡三丁目10番地内)平成三年度設置
「藩政時代、主な街道には江戸日本橋を起点に一里ごとに一対の塚が築かれ、エノキ・マツ・スギなどの樹木が植えられ、これを一里塚といった。現在の柴田町の街道筋には、三か所に一里塚があった。二本杉の名はこの一里塚のスギにちなんだ名と考えられる。」

「牛堂」

町道北船岡8号線 羽山歩道橋前(北船岡一丁目2番地内)平成七年度設置
「大光院建立の木材等を運んだ牛を埋葬した所との伝説がある。地区の大部分は大正の白石川大改修によって河川敷となった。この改修工事で壷や直刀が出土したことから古墳があったことがうかがわれる。」

豊川光雄・記

櫻井先生頌徳碑(旧阿弥陀堂 大正四年)

櫻井先生頌徳碑(旧阿弥陀堂 大正四年)(読み下し文)
歌人として喜臣と号す。文久二年(1862)-大正五年(1916)医術を義父櫻井道琢、鈴木赤人に学び、また仙台医学校、東京済世学舎に入り、研鑽多年、大いに得るところがあった。
明治二十六年(1893年)七月、同市と相計って船迫に日曜診療所を設け、三十六年まで十年間にわって無料診療を続けた。費用は氏の寄付、車代は成田の大沼半左衛門が負担した。三十八年耕地整理の起工を唱導し、委員長として百二十九町歩の耕地を整理した。大正五年十二月没、享年五十五

安藤喜吉君頌徳碑 

安藤喜吉君頌徳碑(読み下し文)
君は喜吉と称し安藤氏である。柴田郡槻木町船迫の人で、明治七年八月八日をもって生まれる。
資性は温厚篤実で、長ずるに及び実業に就き勤勉努力し、大いに区民の望みを得る。抑も船迫の地は農をもって本業となす。故に区民昼夜畝を耕すを少しも怠らず。然るに近年水害起こり、田圃荒涼に至り、あたかも砂漠の如し。君は深くこれを憂いて謂う、この所専業之致養蚕に如かず、而して副となすなり。
明治三十五年四月試みに自家をもって稚蚕共同飼育場において当て、もって奨励し、成績良を得る。 
 (中略)
明治四十五年に蚕友会を組織して講習会に参加して飼育を研究し、地域住民を救済する。
亘理にあった蚕業学校に入って研修を重ね、蚕の共同飼育を始める。 
(後略)

救荒記念 槻木・祇園田 明治三十八年 

救荒記念 槻木・祇園田 明治三十八年(読み下し)
明治三十八年(1905)は岩手・宮城・福島は大冷害に見舞われた。北条伊平翁は粟数百俵を購入し、飢餓に苦しむ人に与えた。
櫻井喜吉翁は食料不足を解消するために生産力を高め、人々の遊堕の心を矯正すべく、今井秀之助技師に相談し数百町歩の田圃の耕地整理を企画し、三十九年二月四日から五月二十九日まで、八千八百円の経費で百二十九町歩の耕地を整理した。
北条・櫻井両氏の功徳をたたえての建碑。

 

薬師堂

お薬師さんの由来(薬師堂の説明板より)
お薬師さんは、私たちの集落へ外から入る病気、その他諸々の災厄を防ぎ守ってくれると信じられ、薬師瑠璃光如来という固い言葉ではなく、親しみをこめて「お薬師さん」と呼ばれて信仰され今日に至っています。
当時の祭礼は、旧暦の二月十一日に行われました。真夜中の一時ごろお寺の池で水垢離をとったあと、鐘を打ち鳴らしながら小さな幟を振り、「お薬師さんのお燈明十二度」と唱えながら各家々の土間から座敷の中央めがけお薬師さんを転がし、止まったときの形で「男 男」「女子 女子」「双子」「天皇」という具合に占います。これはこの家に近近子どもが授かり末永く繁盛していくことを祝ったものと伝えられます。
薬師如来は現在も「健康祈願・家内安全・交通安全」等のご利益が信じられ信仰されています。
お薬師さんは今から二百六十年ほど前、江戸時代に作られた「増補行程記」に「石段 薬師堂有」「杉篭る」と紹介されている由緒のある薬師堂です。
※礼祭日は毎年三月最終土曜日です。
出典:薬師如来奉賛会 平成二十三年三月吉日

 境内に柴田町の名木・古木に選ばれた「薬師堂のサクラ」があります。「種あげサクラ」と呼ばれ、サクラ前線に先がけて開花し、農作業の目安でもあり、地域の象徴としても親しまれています。

豊川光雄・記

基準点

基準点とは、地球上の位置や平均海面からの高さが正確に測定された三角点、水準点等をいい、各種測量や地図作成の基準となるものです。
これらの基準点は、すべての測量の基礎として、公共測量、地籍調査、地殻変動観測等に使用されています。
また、都市計画、都市基盤整備、電力・ガスの事業計画や管理、観光開発、交通網の整備、環境管理、福祉計画等に必要な地図作成に基準点が使用されています。
東日本大震災後の復興事業では、これらの基準点を使用して、震災前の土地の境界や面積が再現されるなど、個人の財産を守ることにも役立っています。
日本の土地の高さ(標高)は、東京湾の平均海面を基準(標高0メートル)として決められています。水準点は、全国の主な国道又は主要地方道に沿って約二キロメートル毎に設置され、高さが正確に求められています。この水準点を使用して測量することにより、土地の高さを精密(ミリメートル単位)に求めることができます。
明治二十一年(1888)に国道4号(陸羽街道)沿いに約二キロメートル毎に東京から仙台まで水準点・標石が埋設されました。
三角点は、地球上のどこの場所かを示す手段として、山の頂上付近や見晴らしのよいところに設置され、経度、緯度、標高が正確に求められています。一等は45キロメートル、二等は8キロメートル、三等は4キロメートル、四等は2キロメートル間隔に設置されています。

船迫城

柴田町の文化財第10集 城と館、他より
船迫村の上町下町を経ると、突きでた丘陵が眼前に迫る。地域開発によって山容は変貌し、城は往時の整った山城の姿を見ることはできない。城は、下部が礫岩(堆積岩の一つで子もち岩ともいう)や、砂岩の互層、上部は凝灰岩が見られ層理が美しい。
本丸跡と思われる台上は、高さ約52メートル・広さ南北90~100メートル、東西30~40メートル、前面に白石川、背後に海老穴、羽山の山々が続くという中世城館の立地条件をかなり備えているといってよく、この城の存在は遠く文治の頃(1180~)にさかのぼり、史上よく知られたところである。
現在見られる船迫城の遺構は、きわめて少ない。
「古城書上」「同書立之覚」「船迫村風土記御用書出」には、東西十二間(約22メートル)南北四十三間(約78メートル)とあるが、これはおそらく本丸台上をさしているものと思われる。
船迫城の歴史については、およそ次のような史料にみることができる。
まず、「吾妻鏡」では、文治五年(1189)八月十一、十二日、源頼朝奥州合戦の折、藤原国衡(西木戸太郎)の首級検証の後、国府多賀城に向うとある。
さらに、「正統世次考」では、天文十二年(1543)七月、伊達稙宗より船迫大和に対し、船迫所領の判書を、天文十六年十一月、いわゆる伊達氏天文の乱後、その子晴宗より大和に対して判書を遣わし、つづいて弘治二年(1556)十二月、晴宗より船迫彦八郎に対し、入間野知行の判書をさずけている。また、留守文書「柴田長帳=奥州市水沢図書館蔵」では、明応九年(1500)に、伊達氏から入嗣した留守景宗(稙宗の弟)に従って留守氏に入った「柴田七騎」の中に「岩沢修理」の名が見えるが、おそらく船迫城に居城したものとおもわれる。
なお、小林清治氏(福島大)は、「ふなはさま日記・天文期」の中で、当時船迫郷に所在した小字と、これについての保有権をもつ百姓と田畑が、それぞれ記載されており、当時、船迫氏が在地領主として住していたことを述べられている。
船迫右衛門については、天正十八年(1590)五月「相馬の戦」に出陣したことが「性山公、貞山公治家記録」に見えているが、おそらく、この船迫城を本拠として駒を進めたものであろう。また、時代はさかのぼるが「相馬文書・吉良貞家状」によれば、十月二十二日、観応二年(1351)倉本川の戦(船迫合戦)の相馬親胤、大納言守親の激突があるが、当時、船迫城や、これと対峙する四保館などが、きわめて重要な役割をもったものと考えられるものである。

出典・柴田町の文化財第10集 城と舘 他
豊川光雄・記

三ケ村用水(旧名取用水)

 柴田町郷土研究会之波太26号から

安藤九平治著

三ケ村用水とは現在の槻木用水の前身で、安永の「風土記書出」(1777)に出ており、舟迫村、入間野村、四日市場村の三ケ村の灌漑のために作られました。
「増補行程記」(ルート図参照)では位置は舟廻出口とあるので、船迫宿の出口、つまり現在の本船迫下町を示すと見られます。この図には石段があって、そこに「薬師堂」も記されているので、間違いなく下町の出口です。少し先に「片かけ」と特に記入されているのを見ると、私たちが「片橋」と呼んでいたところで、その昔は足下に白石川が渦を巻いて流れていたところと伝えられる所です。片かけの少し先に「水門」と朱書きしてあります。ここから用水を取り入れたものと考えられます。
「槻木用水路の沿革・齋藤勝好氏」によれば安永年間・白石川が無堤河川で湾曲蛇行していた頃、船迫十八津入を取水口として槻木方面に始めて開いた三ケ村用水路は陸羽街道(奥州街道)を横断、北側沿いを岩の入、天王、内余川、仮又坂を経て千代の川隧道(延長939メートル)を貫通、台を通り、槻木耕土を灌漑、さらに耕土南寄り中央を通って四日市場北飛入地区千間堀の通称「ヤロコ水門」で分水、(中略)一方北飛入分水堰より四日市場東北本線北側耕土を横断。末端は名取境の五間堀に合流させたとあります。
町史資料編にある舟迫風土記御用書出には「堰本ハ当村岩城ト申ス所ニテ・・・」とあるので、岩城が最初の取水口と考えられます。十八津入はその後の取水口と考えるのが妥当だろうと思います。
「岩城穴(仮称)」と渇水対策としての堰堤「石出し」が今も姿を残しています。
(中略)
当時の街道の北側に用水路の跡と見られる細長い水田が続いており、それが十八津入の山で切られていた。明治十九年の地押図には水田と記されているので相当古い時代に岩城穴の取水口は使われなくなったと考えられます。八津入穴(二番目の穴)は新旧二つの穴があったと考えられます。一つは岩城穴に続く潜穴で現在見られる穴の北西に位置していました。このあたりは通称「関」と言われていて草堰用の丸太杭が何列か旧河道の中央部まで打ち込まれていた。この丸太は昭和二十年代まで存在していました。1997年の町道拡張工事中に河岸に積まれた石垣とそれに「続く草堰用の丸太の一部が姿をみせた事を覚えています。この十八津入穴は柴田高校が出来るまで使用されていました。
三番目の穴は「ほいど栗穴」と言いました。俗称でしょうが、穴の入り口の上に栗の巨木があり、中が空洞になっており、雨宿りをすることが出来ました。今は見られませんが、柴田高校へ行く道路の入り口にありました。
四番目の穴は「天王穴」と言われていて、割と短く、直線状の穴でした。
五番目の穴は「おんまわす」と言いました。この部分の街道は折れ曲がっているので、用水路も街道から離れ、湾曲して進みました。
六番目の穴は「ひすげ穴」と呼ばれました。ひしげてはいなかった様ですが潜穴の途中に斜め横に穴があいていて「ずりだし用」の穴とも考えられます。
七番目の穴は「十文字穴」と言いました。これは潜穴ではなく、サイホン式の穴でした。十文字の由来は用水路と排水路がが交差していたためではなかろうか。仮又坂の水田は低く用水期には排水機を使用していました。
八番目は一番長い穴で通称「長峰」と呼ばれたゴルフ場のある山を掘りぬいた穴で「はすばな」と呼ばれています。齋藤氏の言う「千代の川隧道」です。この穴は長さ1キロメートルほどもあるので、掘る人の苦労も多かったと思われるが、潜った人の話では途中で上下の段差があったという。これは両側から掘 り進み、水平に掘り当てるつもりが上下にずれてしまったためと思われる。当時の技術からすれば許容範囲なのかも知れません。この穴を掘った時からずっと後に作られた槻木新用水(1928完成)の第1隧道(本船迫字城生内~朴木)では左右に20メートルほどのずれが見られました。八番穴と同じ長さの隧道なので、昔の人の方が技術が上だったとも言えそうです。
三ケ村用水の潜穴で現在(平成十一年)でも使用されているのは「はずばな」と「十文字」だけにになり、入り口だけ見られるのは「岩城穴」と十八津穴」の二ヶ所になってしまいました。この用水は伊達藩の役人の村廻り記録に各村々で用水期には「江払い」をして手入れをする様子が残っているのを見ても、重要な用水であったことが伺えます。

秋本好則 記

直木賞作家・大池唯雄

直木賞作家・大池唯雄 郷土の直木賞作家である大池唯雄(小池忠雄)は、明治四十一年十月三十日に小池林治の長男として柴田郡船岡町に生まれました。大正十年、仙台第二中学校に入学。授業の中で「神の心」という作文を書き、教官に非凡なる文学的才能を認められ、作家になるよう進められました。その後、旧制第二高等学校文科甲類を経て、東北帝国大学法文学部国史科に入学しましたが、作家で身を立てることを決意し、大学を中退。学内図書館で研鑽を積みました。
 大池が書く作品は、幕末や明治維新など、歴史に題材を求めた短編がほとんどです。それは、「売れる作品より残る作品を」という大池の強い意思が貫かれているからで、綿密な時代考証を踏まえた珠玉の作品が多くあります。
 昭和十二年上半期の「サンデー毎日」懸賞小説に「おらんだ楽兵」を出品して入選。翌昭和十三年、戊辰の役を舞台に、大池の母方の祖父とその兄弟を主人公とした作品「秋田口の兄弟」を発表して、第八回の直木賞を受賞しました。その後も文芸朝日の戯曲募集に応募した「原田家の人びと」は首位当選。晩年作の「炎の時代」は、大池の集大成ともいわれる作品です。
 大池は、直木賞受賞前から作家大仏次郎氏の知遇を得て、上京して創作活動に励むように進められていましたが、一貫して仙台にとどまりました。昭和二十年空襲のため柴田町に疎開後は、執筆活動のかたわら、社会教育にも力を注ぎ、槻木公民館長、柴田町公民館長などを歴任しました。
 また、船岡中学校校歌の作詞も手掛けました。
昭和四十五年、NHKで「樅ノ木は残った」がテレビ放映されると、船岡は「樅ノ木ブーム」で沸き返りました。寛文事件を調べるため来町した山本周五郎氏の調査に協力した大池のもとには、講演や原稿依頼が相次ぎ、多忙を極めました。
 昭和四十五年五月二十七日、大池は突然、急性心不全で倒れ、意識が戻らぬまま六十一歳の生涯を閉じました。「日ごろ執筆していた、けやきの机に安置していた先祖伝来の木彫不動明王(雲慶の弟子・雲覚の作)の導きで、彼岸へと旅立っていった」と恭夫人は語っていました。
 昭和五十八年、船岡城址公園内に船出会(第六回船岡中学校卒業生)によって、大池の「城中井戸の歌」が刻まれた記念碑が建立されました。
 これは、郷土を愛した大池唯雄を、永く顕彰しています。
 平成二年三月、船迫公民館脇に「秋田口の兄弟」が刻まれた、作家大池唯雄の碑が建立されています。

出典:柴田町制施行四十周年記念誌他
豊川光雄・記

三角点「円山公園」 

四等三角点・円山公園は、昭和六十年七月十八日に設置されました。標石を護るため保護石四個が周囲に配置されています。
北緯 38度03分52.2649秒
東経140度46分20.0272秒
標高19.95メートル
東日本大震災で南に約7メートル、東に約3メートル移動し約43センチメートル沈下しました。

一等水準点2163

一等水準点2163一等水準点2163は、明治二十一年十月十八日・宮城縣陸前國柴田郡槻木村大字船迫字上町(旧船迫村 共有山林地先鈴木久蔵宅地前)
の阿弥陀堂の参道登り口右側の国道に設置されました。平成十年十一月九日・旧国道にあった水準点が道路整備等のため新生町・円山公園の現在地に移転しました。標高20.2110メートル。東日本大震災前は20.386メートルでしたので、約17.5センチメートル沈下しました。

一等水準点2164

一等水準点2164一等水準点2164は、明治二十一年十月十八日・宮城縣陸前國柴田郡槻木村大字船迫字内余川の高橋勇作他の畑地先の国道に設置されました。
昭和十三年八月十六日・反対側の松並木敷地に移設の後、昭和六十二年三月十一日に現国道4号バイパス拡張工事により東船迫一丁目公園の現在地に移転されました。
標石は花崗岩を使用し、明治時代当初のものです。中央部の愛称「でべそ」と呼ばれる球分の頂部を測定します。
標高12.3158メートル
東日本大震災前は12.5314メートルでしたので、約21.6センチメートル沈下しました。
豊川光雄・記

里程標(七里)(リコー研修所前)

里程標(七里)藩政時代、道路網の整備に伴って一里ごとに一里塚が設けられました。
明治維新後、新政府はこれを廃止しましたが、宮城県は仙台・芭蕉の辻を基点に国道(陸羽街道)沿いに里程標を一里毎に明治二十二年(1889)に設置しました。この年は四月一日に町村制が施行されています。
右側「明治廿二年四月設宮城縣」
正面「距仙臺元標七里 不」
左側「陸前國柴田郡槻木村」  
この地点は、仙台から七里(約28キロメートル)の距離です。東北本線は明治二十年に塩釜まで開通しましたが、当時の陸上交通が徒歩(馬)が使われることが多く、この里程標は街道の基準になりました。柴田町内に唯一残る遺産です。完全な形の物は県南に3本だけです。
【参考】
六里標は、槻木村四日市場の旧機関場東にありましたが亡失しました。
八里標は、槻木村船迫上町入口(現柴田町西船迫交差点)付近にありましたが、国道四号バイパス工事時に亡失しました

豊川光雄・記

立石緑地

立石緑地上野山に陣を布いた平泉政権(藤原方)は前線を兎田の太鼓山に置き、見張りをさせたものと云う。太鼓山の地名の由来はこの時合図の為の太鼓を置いたところからといわれています。沼辺側にも太鼓を置い
た山があるようで、両軍入り乱れての戦いがしのば
れます。
この山に立石長者末裔の碑とされる石があります。かなり風化していますが、寛永九年(1632)「得野植毛(とくやしょくもう)」の文字が読み取れます。野を耕し穀物を植えましょうという意味。言い伝えとは、どうも直に結びつかぬこの碑文が何を意味するものなのか、また誰が建立したものなのか、これもまた謎なのです。
この碑は「俵石」と呼ばれる石に刻まれています。
俵石は、船岡村館山(四保山)の北側の山岸地区から産出される石英安山岩です。
白石市小原の材木岩と同じ六角形の柱状節理となっていて、石碑や墓石に使われています。しばたの郷土館の中庭に俵石数個が置いてありベンチに使われています。

出典:立石長者の宝さがし
豊川光雄・記

立石長者の宝探し

平成三年に柴田町で「立石長者の宝さがし」というイベントが行われました。地域に残る「あかねさす・・・・」の句を基に、立石長者の屋敷の宝を探すイベントでした。
その折に「あかねさす・・・」という句がどこまで伝承されているかの調査依頼が行われました。その結果、北海道から九州まで広く伝承されていることが分りました。
回答のあった地域の伝承ことばをご紹介します。

北海道標津町‐「朝日さす夕日さす・・」アイヌ大酋長ヨコウシの伝説
青森県むつ市-「朝日さす 夕日輝くその底に うるし千杯 朱万杯 黄金万両」
岩手県久慈市-「朝日照る照る 夕日輝く アジの木の下に うるし万ばい 黄金万ばい」
山形県飯豊町-「朝日さす 夕日輝く 七つの中も杜うるし千杯 朱万杯 黄金 千枚 荒鍬千貫」
栃木県宇都宮市-「朝日輝く 夕日さす 瓢箪なりのバテレンの下に うるし千杯 朱千杯 黄金千杯」
石川県金沢市-「うるし千杯 朱千杯 黄金の鶏一つがい 朝日さす 夕日輝く木下にみつばうつぎの下にある」
長野県佐久市-「朝日さす 夕日輝く その間に 黄金千枚二千枚」
岐阜県南濃町-「朝日さす 夕日さすみつじの下に栗粟三升 なわ三ば 金のとり」
(行基寺絵巻にある)
京都府宇治市-「朝日さす みつばうつぎのこの下に黄金千両 うるし千杯」
福岡県久留米市-「朝日さす 夕日輝くその下に 七つならびが七ならび 黄金千両 朱千両 座頭の杖のつくかつかぬか]
宮崎県えびの市-「朝日とユウヒのさす 楡の大木の下に 黄金千両 朱千両が埋めてある」

地域によって木や宝の意味が違ってることがわかります。
立石長者の宝探し

立石長者の宝さがし実行委員会資料より
秋本好則・記