角川書店 「角川日本地名大辞典」より

なりた成田く柴田町〉

柴田郡の東南方にあり,西方の山地から槻木毒盆地に突出する舌状丘陵の谷あいに位置する。地名の由来
は、伊達植宗の子成田宗栄がこの地の城主であったことによるという(宮城県地名考)。

〔中世〕成田戦国期に見える地名。柴田郡のうち。天文7年伊達植宗は村田城主村田紀伊に田代「仁十貫文なり田」を与えた(天文段銭古帳)。天文22年伊達晴宗も成田など6郷の田銭・棟役を同じ村田紀伊・一郎父子に加恩として与えている(晴宗公采地下賜録)。このほか小泉平三には成田のうちの坂下在家な
どを賜与した(同前)。

〔近世〕成田村江戸期〜明治22年の村名。柴田郡北方二十村のうち。万治3年から天和元年までは岩沼城主田村右京亮の知行で56貫文(伊達治家記録)。天和元年より明治期まで船岡の柴田蔵人の知行地(柴田家文書)。安永元年の戸数66戸(封内風土記)。一村高は「元禄郷帳Jで403石余、「天保郷帳」では576石余となる。村鎮守は八幡神社。寺に曹洞宗長照院がある(封内風土記)。藍・紅花の産地(金ケ瀬町山家文書)。元治元年には僧侶畠山玄宗により寺子屋畠山塾が開設された(宮城県史教育史)。明治元年新南部氏領,以後,白石とを県・角田姿く県・仙台県を経て,同5年宮城県に所属。同17年の戸数は50・人口389・馬36(柴田郡地誌)。明治22年柴田郡槻木村の大字となる。

〔近代〕成田明治22年〜現在の大字名。はじめ槻木村,明治37年からは槻木町の大字。昭和31年現行の柴田町成田となる。明治41年坂元屋敷の大沼源太郎は坂元植林会社を創設,以来代々植林事業を継承して今日数百haに及ぶ美林が造成されている。〈地誌編〉柴田町