八成田村と小成田村
成田村の初見は「御段銭古帳」のうち「むら田殿へ参候」六郷のうちとして「一、仁十貫文なり田」とあるもの、
「采地下賜録」では加恩として成田など六郷の棟役をつかわされた。同資料にはまた、ゆかりの人物と思われる二人の人物がみえる。すなわち、成田三郎左衛門が天文十一年六月まで領有していた東沼辺、及び成田丹後守が同じく領していた小成田を小泉伊勢守に残さずつかわす、とある。更に成田郷坂の下在家などを小泉平三に下すとあり、また同郷のうち成田三郎左衛門からの買地である平三内、入在家、ふる内、打越を足立小太郎に下すとある。

「御段銭古帳」には小成田の記載はなく、「下賜録」の記事が初見となる。「御段銭古帳」には入間野、舟迫など記載のない郷はあるが、これらは留守領であったためと理解される。が、小成田についてはなにゆえに記載されていないのかはわからない。
小成田だけでなく、東沼辺も「御段銭古帳」には記載がなく、「一五貫文ひかしぬま田」という記事がある。「正保郷帳」をみるに沼町は沼辺の半分以下の村高である(沼田六、四貫九三二文、沼辺一五七貫九五七文)。「御段銭古帳」では沼田一七貫四〇〇文・沼辺毛貫五〇〇文と、ほぼ同じである。これに東沼田の五寛文を加えると、沼田の方の段銭が多くなる。これは奇異なことといわなければならない。地形的にも東西にわかれるとすれば沼辺の方である。これらを考えるに、下川名を上川名と誤写したように、東沼辺とすべきところを東沼田と誤って写したものと思われる。

成田氏については、さきにみた三郎左衛門、丹後守の両名以外に成田村に関係のある人物を特定できない。なお、「古城書上」には成田城は成田十郎左衛門尉の居城とある。

一方、小成田氏については、後に山岡氏と改める小成田総右衛門重長が知られている。重長については第四編第七章に詳しい。しかし、小成田氏の居館跡は確認できない。

地名の由来について、『地名考』は『大日本地名辞書』の千葉県成田の項所載の「成田参詣記」に「成田とは熟田
の義なり云々」とあることを引き、良田として耕作されている土地か、としている。しかし、特に成田、小成田に良
田が多かったとも思えない。

『古代地名語源辞典』ではナリはナラスから生じた地名であるとし、平坦地ないし緩傾斜地を表わすとしている。
この解釈があてはまるかどうか、なお検討を要する。
また、藩政時代を通じて、人頭四人、多い時でも七人という極めて規模の小さな小成田が、なぜ終始独立の村でと
おしたのかも、奇異の観がある。